死がもたらす平衡
二人が最初に出会った時は、まだ吾郎が良枝と知り合う前だった。しかもその時の吾郎は初めてだった。由美が覚えていないのも無理はない。二人が最初に身体を重ねた時、付き合っていたわけでも何でもなかったからだ。しかも、その日初めて出会った相手、それも友達からの紹介だったのだ。
吾郎が大学に入学してすぐのことだった。由美はまだ高校生だったのだが、その頃から大人びていて、吾郎は年上のお姉さんだと思っていたようだ。
先輩は、吾郎の大学入学祝にと、初体験をさせてくれるというのだ。先輩と由美がどういう関係だったのか今となってはよく分からないが、気になるところだった。由美は本当に「大人の色香」を醸し出していた。
「こんなに女って柔らかいんだ」
これが由美への第一印象。そしてこの思いは今でも由美にだけ抱いている。それから何人かの女性と経験したが、これほどの柔らかさと肌のきめ細かさを持った女性はいなかった。
良枝に対して、今でも少し物足りなさを感じるのは、由美の身体を忘れられない自分がいるからだ。もし忘れることができるとすれば、もう一度由美を抱くしかないと思っていた。ただ、それ以外に方法はないというだけで、確率は限りなくゼロに近いのではないかと思っていた。
ホテルの部屋の前のノブに手を伸ばすと、二人の手が重なった。その時に笑顔を見せた由美を見て、吾郎の頭は過去に戻ってしまった。
――まさに同じシチュエーションだ――
同じシチュエーションを感じると、その時の相手を無意識に思い出そうとする。その瞬間、意識が過去に戻ってしまったということは、
「この人があの時の」
と完全に過去の記憶と目の前の現実が、数年と時を超え重なったのである。
由美のことを思い出そうとすると、ある程度までの記憶はよみがえってくるが、完全には思い出せない。しかも、思い出したことも、どこか信憑性に欠けているようで、記憶自体がまるで夢のことのようだ。
由美が、初めての女性でなければ、もう少し記憶が鮮明だったかも知れない。初めての女性と再会し、またホテルに来るなど思ってもいなかった。あの時の記憶を取り戻したい気持ちと、さらに新しい記憶を頭に刻みたい気持ちに満たされていた。
それにしても、どうしてホテルまで来る気になったのだろう? 大切な妻良枝に不満があるわけでもないのはもちろんのことだった。長年付き合ってきて、今まで浮気を考えたこともない。
確かに長すぎた春だったのかも知れないが、新たな気持ちで迎えた新婚生活、明らかに新鮮であり、そこに浮気の虫が入り込む余地などないはずだった。それだけ幸せを満喫していると思っていたのだ。
しかし、幸せだからこそ、浮気の虫が入ってきたのかも知れない。
――俺は良枝に甘えているのかも知れない――
良枝なら、何だって許してくれそうな気がする。一回くらいの浮気であれば、
「しょうがないわね」
と言って許してくれそうだ。吾郎は自分を慕ってくれている良枝を意識していた。甘えは却って、物足りなさを生み、良枝では満足できないものを他に求めようとする。それが性欲というものであり、性欲は留まるところを知らなければ、ひょっとすると、由美だけで満足できなくなってしまうかも知れない。
そんなことになれば、吾郎には自分で、収拾をつけることができなくなるだろう。それだけは避けなければならない。
それでも、由美は新鮮だった。
「あの時と変わらないわね」
部屋に入り、いきなりキスをしてきた由美が、貪るように唇に吸い付いた後、呼吸を整えながら呟いた。その声は妖艶で、ハスキーだった。
「覚えていてくれたんですか?」
「ええ、あなただったのね」
「いつ頃から気が付いたんですか?」
「そんなに早くから気付いたわけじゃないわよ。ごめんなさいね、本当は、今日会った時に思い出したの」
「実は、僕もなんだよ」
吾郎の言葉はウソだった。本当は、この間会った時、部屋のベランダを見た時に、何となく気が付いた気がした。ベランダから誰かが覗いていたのを感じた時、あれは幻だったのかも知れないが、吾郎には、あの幻を最初良枝だと思っていたが、よく見ると、自分の初めての相手だったことに気が付いたのだった。
由美は、包み込むような笑顔を吾郎に向けている。それは、吾郎のウソを見抜いているかのようにも見えたところが、包み込む感覚を与えたのかも知れない。
ただ、由美が気を遣っているようには思えない。気付いていて何も言わないのは、言っても仕方がないというもっと現実的なところがあるからだ。
別に冷めているとは思わない。それも由美が包み込むような雰囲気を醸し出していることに含まれているように感じるからだ。
由美の身体は、最初の時に比べて、柔らかく感じられた。身体を重ねると、前の時のことがまるで昨日のことのように思い出される。思い出した中で、今の由美とを比較してしまう。
「肌はこんなに白かったんだ」
「きめ細かさは、ここまで身体にピッタリとくっついてくるなんて」
以前の由美と比較しているつもりで、いつの間にか良枝との比較になっていることを、吾郎は気付いていなかった。
「身体だけを見れば、良枝に勝ち目はないな」
と、してはいけない比較をしてしまった。
この比較が、不倫から抜けられない男女を作ってしまうのだと、吾郎は由美を抱きながら感じた。ひょっとすると不倫をしている男女のほとんどは、このことに気付いているのかも知れない。気付いていて気付かないふりをしているわけではなく、気付いてもどうしようもできないことに苛立ちを覚え、これからぬかるみに嵌りこんでしまう自分たちを憂いている。そう思うと、恐怖がこみ上げてきたのだった。
――やっぱり不倫は思い立った時から、逃れられない運命なんだ――
その運命が示す行先は、決して幸せではない。覚悟もなしに踏み込んだいばらの道、その先に待っているのは、修羅の世界なのであろうか。
由美との逢瀬をこれからも重ねていくことが、自分の破滅を招くことは目に見えている。由美との不倫が始まる前から、吾郎は夢に自分の破滅を見ることがあった。目の前には良枝の汚いものでも見るような視線を感じたこともあれば、良枝が妖艶な姿で吾郎を見下ろしている。その横にいるのは一体誰だろう?
また、夢の中で、由美が吾郎を罵っている。お互いに分かって修羅の道を歩んでいると思ったが、吾郎に飽きたら、後はポイであった。
「そんなのありかよ」
というと、
「あなたにはもう用はないわ。しょせんあなたは遊びなの」
不倫の結末としては、十分ありえることだが、相手にとっては一番考えたくないことだった。だが、吾郎は由美を見ていて、
――この女なら、それくらいのことはするかも知れない――
そのことを知った時、すでに由美から離れられなくなっていた。
茂の顔が思い浮かんだ。彼は良枝とは学生時代から知っていた相手だ。
――ひょっとしたら、俺の知らないところで会っているのかも知れない――
自分のことを棚に上げて、そんな想像をした。だが、その方が幾分か気が楽である。お互いに不倫をしていれば、相手を責め苛むことはないだろう。
――果たしてそれでいいのか?