死がもたらす平衡
良枝は、飯田が死んだことをしばらく知らなかった。良枝は飯田が死んだちょうどその時、飯田のことを思い出していた。卒業してから、ほとんど意識したことのない相手。もちろん、坂口や茂の間で、彼らだけが意識している三すくみの関係など知る由もなかった。
誰が頂にいる頂点なのか分からないが、三人が三人とも頂点であった。一番意識から遠い相手だった飯田が、死んだその時と思える時、彼が死んだのではないかというゾクッとするような感覚が、良枝を襲ったのだった。
ちょうどその時、良枝の親友である友達が出産したと聞かされた。彼女は三すくみの彼らを知らない人で、社会人になってから友達になった人だった。
社会人になると、学生時代の友達だけでなく、しかも仕事関係以外の知り合いも増えてきた。学生時代の知り合いばかりと仲良くするのはやめておこうという意識が働いたのも事実で、皆違った意味で、先を見ている人が多かった。
その友達は、就職してから、一番早くに結婚した人だった。
「結婚は二十四歳まで、出産は二十七歳まで」
自分で勝手に決めていた。彼女は会社の後輩で、三つ下だが、しっかりしている。
「人生設計を立てすぎると、今度はがんじがらめになって、自分の希望などまったく無視してしまい、気が付いたら、時間だけが規則正しく進んでいるだけだって気付いて、虚しくなってしまうかも知れないわ」
というと、
「覚悟と信念さえ持っていれば、そんなことにならないわ」
というのだ。
覚悟があっての信念なのか、信念があるから覚悟が持てるのか、どちらなのかハッキリしないが、良枝は友達のような覚悟も信念も持つことは無理だと思った。
そんな時間を正確に刻んでいる彼女が、自分の虫の知らせに呼応するかのように生まれた子供、
「まるで生まれ変わりなのかしら?」
と思わせた。
それからしばらくして飯田が死んだことを聞かされ、時間的にもピッタリ合っていたことで、
「やっぱり虫の知らせだったんだわ」
と感じたのだ。
虫の知らせを感じたことは今までにもあった。ただ、人の生死にかかわることは今までにあったわけではない。霊感が鋭いなどと思ったこともなければ、人に言われたこともない。問題は、死んだ人間に会ったと思ったのは、間違いではなかっただろう。
まさかあの時の少年が飯田だなどと知る機会があるわけはない。ただ、飯田の顔をまともに見たことがなかったのは事実で、まともにどうして見れなかったのかについても、考えたことはなかった。
死んだ人間のことを悪く言うのは本当は本意ではないが、あまり素行がよくないという噂は聞いていた。
「そうなの?」
と、とぼけてはいたが、最初から良枝には分かっていた。
厭らしい眼差しを感じたことがあるわけではないが、
「彼を一人にはさせられない」
という意識はあった。
一人にしてしまうと、何をするか分からないというよりも、一人になった時、もう一人の自分が現れるのではないかと思ったからだ。
「何か悪いことをするのであっても、それは彼の本心からではない。彼の中にいる他の誰かがさせるのだ」
というような目を感じるからだった。
誰かに命令されて嫌々させられるのが可哀そうだと感じた時、頭の中によみがえってきたのが、良枝を蹂躙した命令されていた方の男の子だった。
もう一人の命令していた方の人に関しては、あまり意識がない。
「その人に深入りしてはいけない」
という思いが強くあり、深入りしてしまうと、飯田の二の舞に嵌ってしまうという意識があったからだ。
華奢で、小柄なその人は、帽子を目深にかぶり、決して顔を見せようとはしなかった。口元から歪んで見えたのは、笑顔だったのだろうか? 横顔から垣間見た気持ち悪さは、華奢な身体をしなやかさに変えているかのようだった。
死んだ飯田の葬式はすでに終わっていて、一人誰かが死んだだけという雰囲気に、誰もがなっている頃だろう。もっとも飯田にはさほど友達はおらず、三すくみの仲間が一番の友達だったはずだ。それでも飯田が死んだことは二人ともあとから聞かされたという。
「肉親以外で、誰か飯田の死を悲しむ人などいるのだろうか?」
と思うのだった。
死というのは突然訪れ、突然去っていく。死を目の当たりにすると、深い関係でなくともしんみりしてしまうものだ。まるで世界が違って見えるような感覚に陥るのではないだろうか。
良枝は、死について真剣に考えたことはなかった。身内で祖母が老衰で亡くなったくらいで、それほど意識したことはない。むしろ、テレビドラマで人が死ぬのを見て涙したことはあったが、涙腺の緩い方でもないと思っている。
どこか冷めたところがあると思っているのは、トラウマを持っているからだろう。深くは考えるが、余計なことを考えたくはないと思う。余計なことは無駄なことであり、無駄なことを考えるのは、自分が冷めているのを自らが証明しているようなものだ。
飯田とは、それほど親しい仲ではなかったのに、告別式の案内状が来た。飯田の遺品の中に、良枝の連絡先でも書いてあったのか、良枝自身は、飯田のことを忘れていたくらいだった。
式には出なかったが、出なかったことを後悔するのではないかという予感もあった。それは、飯田が自分にとって思い出さなければならない何かを秘めたまま、二度と会えないことで、永遠に封印してしまったことを後になって気付いた時、自分がどう感じるかが、どのような後悔を産むかが怖かったのだ。
マンションの中で最近、ちょっとした事件が起こった。
ゴミの捨て方を巡って、由美と反対隣の奥さんが言い争いしているのを聞いた。どこの家庭も近所づきあいなど好まない人が多いのは分かっているが、喧嘩ともなると穏やかではない。
どちらの意見が正当かと言われると微妙なところがあり、融通を利かせるべきなのか、それともあくまでもルールにのっとった運営がいいのかというところである。
反対隣の奥さんは、このマンションでも古株だった。奥さん連中を束ねている存在だと言ってもいいだろう。そういう意味では敵に回すと厄介なことになるので、無難に付き合いながら、あまり関わらない方を選択するのがうまくやっていく一番の方法である。
その人には、他の奥さん連中を従えているところがあり、まるで高校時代を思い出す。
クラスに一人くらいはいたであろう。まわりの取り巻きに囲まれて、大きな顔をしている女性が、彼女と一緒にいればどんなメリットがあるのか分からなかったが、取り巻きにだけはなりたくないと思った良枝だった。
「主婦になってまで、こんな人たちに囲まれなければいけないなんて」
と思うのは、良枝だけではあるまい。
それにしても、引っ越してきてからそれほど時期も経っていないのに、さっそくぶつかるとは、由美という奥さんもなかなか一筋縄ではいかない人なのだろうと思うのだった。