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死がもたらす平衡

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 と感じた瞬間、そこにある顔が自分であると分かり、それが恐ろしかったのだ。
 男たちの顔を見ると、怖いという感じがしなかったのを思い出した。二人はこちらから見て、逆光になっていて顔がハッキリ分からなかったのであるが、それよりも、自分の顔と同じ顔が、恥かしい姿の自分を見ているのが怖かった。その表情はまったくの無表情。まるで氷のようだった。
 少し微笑んでいるように見えたのは錯覚だろうか。いや、ほとんど表情は変わっていなかったはずだ。微笑んだように見えたのは、自分の顔でなく、もっと大人の女性に少しだけ変わっていたように感じたその時だった。その顔はまったく知らない顔で、どうしてこっちを見て微笑んでいるのか、訳が分からなかった。
 その女の人は、自分を見て、驚いた様子はなかった。
――それにしても、二人の男たちは、お姉さんの存在にどうして気付かないのだろう?
 という思いがあった。
 薄暗くカビの生えたような、今にも壊れそうな小屋の中、連れ込まれた時の恐怖が次第に余裕に変わってくると、まわりが少しずつ見えてきた。
 どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのかという理不尽な思いが、恥かしさを上回った時、二人の男たちは、急にあたふたと慌て始めた。
 その様子から、すぐに自分が解放されることが分かったのだが、結局、一人解き放たれ、事件にもなっていないことから、自分が警察に行っていればどうなったかということも想像がつかない。
「これでよかったんだ」
 家族も誰も知らないこのことは、死ぬまで自分だけの秘密にしていようと、心に深く刻んだことが、すぐに記憶から消すことができた。完全に消せない部分はトラウマとして残ってしまったが、それでも今まで、大きな影響もなく過ごしてこれたのだ。
 だが、最初の一年ほどは苦しかった。誰にも知られないようにすることがどれほど苦しいことなのか、思い知らされた。一年経ってしまうと、自分の中で勝手に時効だと思うようになり、安心したのだった。
 時効などという言葉も知らなかった少女時代。大人の男性が怖くて仕方がなかった。特に優しく微笑まれると、全身に痺れが走った。それでも相手に悟られなかったのは何故なのか、今でも不思議に思えるところだった。
 良枝は、吾郎にも男と女の違いこそあれ、似たような経験を幼児時代にしているのを感じた時、
「この人から、離れられない」
 と思ったのだ。
 最初から離れる気がしなかったと思っていたが、経験の共有が二人を結びつけたのかも知れない。異常な経験ではあったが、お互いにトラウマを共有することで、傷の舐めないから、本能的に愛情を感じ取ったのかも知れない。
――愛情とはどこから来るのだろう?
 お互いに惹き合っている感覚もそうなのだろうが、何か共有できるものが一つでもあれば、それが愛情に結びつく。それこそが、
「本能の共有」
 だと言えないだろうか。
 良枝が感じているような感覚を吾郎が感じているとは思えない。そういう意味で、吾郎は弟であっても、兄ではない。少し頼りないところがあるが、それを支えていくのは良枝の役目だ。ただ、そのためにお互いに考えすぎてしまうところがあるように見えてしまうようだ。
 長すぎた春にならなかったのは、お互いに惹き合うところが根の深いところにあったからだろう。吾郎も最初の頃に比べて、お互いにトラウマを持ち合わせていることに気付いているようだし、きっと、彼なりに、
「本能の共有」
 を、感じているに違いないのだ。
 お互いに過去に嫌な思い出があると、隠したがるものだが、二人は隠そうとはしなかった。気持ちを打ち明けることで楽になるというよりも、共有という気持ちを強く持てるからだ。
 そう思うと、
「私が本当に好きな相手というのは、吾郎さんなんだろうか?」
 という思いに駆られることもあるが、
「恋愛と結婚は別だ」
 と言われるが、吾郎は恋愛相手ではなく、結婚相手にふさわしいのだろう。
 二人の子供の頃の話は、大学時代にすることはなかった。大学時代までが恋愛期間で、卒業してからが、婚約期間だったような気がする。婚約期間としては長すぎたが、吾郎の方に過去を気にするところがあったことから、結婚が遅くなったのだと、良枝は思っていた。
 当の本人である吾郎は、結婚が遅れた理由を、子供の頃のトラウマにあるとは思っていない。そこまで深刻な気持ちではなく、結婚が遅れたのは、まったく違ったところに理由があった。
 吾郎が意識していたのは、考えすぎる二人の性格のことだった。
 お互いに考え始めると、深みに嵌ってしまうところがある。
「果たして結婚相手としてはどうなのだろうか?」
 という思いが強かった。似たもの夫婦という言葉があるが、短所が似ているのはあまりいいことではないだろう。吾郎は少なくとも自分の考えすぎてしまう性格が嫌いだった。
 良枝も、あまりいい性格だとは思わなかったが、結婚の差し障りになるなど考えたことはなかった。
「短所は長所の裏返し」
 つまり背中合わせで、紙一重だとも言える。悪いところばかりではなく、良いところも潜んでいると思うと、楽天的すぎるよりもいいことは分かっているつもりだった。
 良枝にとって思い出したくない忌まわしい過去、本当なら思い出すはずもないと思っていた。記憶の封印はすでになされていて、高校に入学するくらいから、思い出すこともなかった。
 思い出したとしても一瞬で、すぐに封印された。それなのに、良枝は夢に見るまでに思い出してしまったのだ。
 それが、ここ数か月くらいのことで、何が原因なのか、自分ではさっぱり分からなかった。
「抑えていた気持ちがよみがえるには、きっと他にも抑えが利いていたはずなのだけど、何かの拍子に抑えが利かなくなって、そのために意識としてよみがえったんじゃないのかな? たとえば、誰か抑えている人がいて、その人がどこかに行ってしまったとか、死んでしまったとか……」
 吾郎に話すと、そんな答えが返ってきた。
 抑えていた人、それは一体誰なのだろう?
 逆も考えられるかも知れない。
 ひょっとして、実行犯の二人のうちのどちらかが、忌まわしい過去として忘れてしまいたいと思っていたのが、被害者に伝染し、いい方に効果を表していたのだが、加害者の一人が死んでしまっていたとしたら、せっかく抑えてくれていたものが切れてしまうこともあるだろう。
「逆も真なり」
 いつもこの考えでいるのが良枝である。そのために考えすぎる性格だと、自分でも思ってしまうのだった。
――誰かが死んだ?
 そういえば、数か月前に良枝は「虫の知らせ」を感じたような気がした。
 あれは、仕事がいつもより早く終わって、
「今日は何もないから、早退してもいいよ」
 と、珍しく上司に言われた日だった、普段なら、所長がいて目を光らせているのだが、その日は出張でいなかったので、お許しが出たのだ。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
 普段は少々の残業はまったく手当に結びつかない。こういう時に帳尻を合わせておかないと割に合わないだろう。
 帰りに買い物を済ませて、前から行ってみたいと思っていた喫茶店に寄った時のことだった。
作品名:死がもたらす平衡 作家名:森本晃次