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死がもたらす平衡

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 たまにそういう人がいるのは、良枝も知っていた。だが、実際に身近にそんな人がいたことはなかったし、いるなどと考えたこともなかった。
 吾郎は、そんな中でお互いに気さくな感じがありがたいと思っている人だったのだ。
 後になって話をした時に、
「喫茶店なんかで、おばさんたちの会話を聞いていると、腹が立ってくることがあってね」
「どういう時?」
「レジでお金を払う時のことなんだけど、誰かが代表で払えばいいものを、皆遠慮し合って、「私が払うわよ」なんて、それぞれが言うものだから、会話が行ったり来たりするんだ。後ろに並んでいる人がいるのにだよ。最初から決めておけば、レジで問答することなんかないのに、自分たちだけの世界を作ってしまって、他の人のことなんてどうでもいいんだ。自分たちで気を遣い合っているだけで、まわりは関係ないと思っている人ほど、気を遣ってもらわないと、たいがいに文句をいうもんだよね。腹が立つというのは、そういう時のことさ」
 確かに、自分たちの世界だけを作って気を遣い合っているのを見せつけているかのように見えるのは、醜さこの上ない。良枝もそんな場面に出くわせば、吐き気を催すほど、胸がムカムカしてくるだろうと思っている。
「だから、俺は人に気を遣うのが嫌だし、気を遣っていると思われるのも心外なんだ。気を遣うという言葉を穿き違えているやつが多すぎるんだよな」
 と言っていた。
 まさしくその通りで、切々と訴えられると、吾郎の意見が正論に思えてくる。気を遣っていながら、気を遣っているように見せない人が、一番「大人」なのだろうと良枝も感じていた。
 良枝が最初に吾郎を嫌ったのは、話をしなければ、彼の本当の気持ちが分からないと思ったからだ。それなのに、なかなか吾郎から話しかけてくることはなかった。吾郎は無口なところがあり、社交的な良枝には、違う世界の人間に、最初は見えたのだった。
 話をしてみれば、結構理路整然とした話し方をする。くどくどした説明ではなく、理論に基づいてはいたが、しつこいわけでもない。
 何よりも、
「相手に分かってもらおう」
 という考えが一番大きかった。
 最初の頃の吾郎は、人と話をするのが億劫なタイプだったようだ。話ができる相手がそばにいなかったからなのだろうが、最初に話しやすい相手として目の前に現れたのが、良枝だったのだろう。
 良枝は吾郎の話をするのが億劫な態度を見て、
――この人は、人と話をすることに対して、何か心の中に鬱積したものがあるのかも知れないわ――
 と感じていた。
 その予想は大方当たっていたのだが、女性に対しての不信感であるということまでは分からなかった。
 子供の頃に感じた思いはトラウマとなって残っていたようだ。ハッキリと聞いたわけではないが、付き合い始めてから、
「俺のことは少しでも分かっていてほしい」
 と言って話してくれたのが、子供の頃に、大人の女性から悪戯された経験だった。
 いたいけな子供に悪戯したいという女性は、少ないだろうが存在するようだ。もちろん、良枝にはそんな心境は分からない。
「悪戯したくなる少年がいるから、悪戯するのさ」
 と、開き直った女はそう言うかも知れない。だが、悪戯された子供はどうなる? 成長過程でまだ精神が固まっていない子供に取り返しのつかないトラウマを植え付けてしまうかも知れないのだ。
 どんなことをされたのかは、本人のトラウマを逆撫ですることになるので、余計なことを聞くわけにはいかない。だが、ある程度は想像がつく。怖くて恐ろしくて、涙も出なかったのではないかと思う。もし、自分に弟がいて、そんな目に遭ったとしたら、復讐だって企てたかも知れないと思うほどだった。
 良枝にとって吾郎は、弟のように感じることがある。決して兄ではない。慕われることはあっても、慕うことはない。それでも、しっかりしているところがあるので、男性を立てることは忘れない。
 吾郎を苛めたくなる女性の心理は、好感を持たれる感覚の反動なのかも知れない、薄い皮が背中合わせになっている感覚は誰もが持っているものなのだろう。
 良枝も、どこか歯車が狂っていれば、吾郎を苛めたくなるという本性を持っていたらどうしようと思った。理性があるから抑えているだけで、一歩間違うと、人を苛めたくなる性格を秘めているかも知れないと思うと、自分でも恐ろしくなった。
 誰でも子供の頃に、苛められたり、辱めを受けたり、恥かしいところを見られたりした経験があるものだと良枝は思っていた。もちろん、程度の差はあるだろうし、その人が深く感じていなければ、すでに忘れてしまっている人もいるだろう。
 良枝は自分では忘れてしまっていたが、悪戯をされた経験があった。悪戯をした方は覚えていてもされた方は覚えていない。この頃から良枝は、
「嫌なことは忘れてしまおう」
 という性格になっていた。
 いろいろなことを深く考えるのは、嫌なことを忘れてしまおうとするからで、それは時間が解決してくれるという感覚に似ている。
 子供の頃の記憶の中の苛められた記憶は、ある日突然に思い出す。夢に見ることも多く、何か共通性があるのかも知れないと考えてみたが、共通性らしいものは見当たらない。いきなり思い出すのであって、特に何かを外部からの影響が関係していたりするわけではない。
 夢の中の記憶はかなり鮮明だった。まるで昨日のことのように思い出す。
 ただ、夢の中に出てきた少女は自分ではない。自分の子供の頃の顔をした女の子が怯えている。二十歳くらいの男が二人で、女の子を押し入れに押し込めて、女の子の身体を触っている。
 女の子はまだ十歳にもなっていない。何をされるかなど分かるはずもなく、ただ、目の前の男二人から、
「殺さないで」
 と、苛められることよりも、殺されるのではないかという恐怖の方が圧倒的に強かったのだ。
「こいつ、どこを見てるんだ?」
 女の子の視線は男二人を見ていない。怖いから視線を逸らしているわけではなく、明らかに何かを意識して、意識した方を見ていたのだ。男たちは、その視線の異様さに気が付いて、二人で女の子の視線の異様さに、少し怯えている。
 男たちもそれだけ視線に怯えを感じている。自分たちが悪いことをしているという意識がある証拠であろう。二人の男は女の子が何を考えていて、何を見ているかなど、最初は意識していなかった。男二人で快感を分け合えばいいというくらいにしか感じていなかっただろうかである。
 女の子は男たちの顔をまともに見ていない。きっと警察に訊ねられても答えることはできないだろう。
 女の子の視線が捉えているものは、夢を見ている自分だった。その顔には不思議な感覚が漲っている。まるで幽霊を見ているかのような感覚で、夢を見ている本人を知っているかのような感じだった。
 そう思った瞬間、良枝はその時のことを思い出した。
 虚空を見つめていたわけではなく、確かにそこには誰かの顔があった。その顔には見覚えがあり、まるで鏡を見ているかのようだった。その顔は自分であり、そう感じた瞬間、意識が朦朧としてきた。夢を見ていて、どんな夢が一番怖いかといえば、夢の中で自分の顔を感じた時である。
「これは夢なんだ」
作品名:死がもたらす平衡 作家名:森本晃次