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死がもたらす平衡

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 優子も別に働くことにこだわっていたわけではないので、専業主婦でもいいと思っていた。店の人からは、
「もったいないわ」
 と言われたようだが、本人の意志なのだから、尊重するのが一番だった。新居は美容室の近くにあるので、いつでも手伝うことはできたが、今のところ、お呼びがかかることもないようだった。
 優子に呼び出された良枝は、
「どうしたの? 何か気になることでもあったの?」
「夫のことなんだけど」
 その時良枝は、まだ優子の旦那が坂口であることを知らなかった。
「私が専業主婦でいるようにって言ってくれてるんだけど、私はまだ働いてみたいのよね」
 店のオーナーの話とは少し違っていた。
 優子の方から、辞めると言い出したということだったが、優子の話では、辞めることを躊躇しているのか、悩んでいるようだった。夫のことだと言っているが、まわりの話と優子の話での食い違いは、まわりは優子の建前をそのまま話していて、本人は本音を話しているからに違いない。
「旦那さんがそう言っているのなら、その方がいいのかも知れないけど、そんなに悩むのなら、打ち明けてみれば?」
 優子の性格からすれば、思ったことは自分から言わなければ気が済まないと思っていたのに、相手が男だとすれば、事情も違ってくるのかも知れない。
 だが、優子の旦那が坂口だと知っていれば、そんな助言はしないだろう。坂口は頑固なところがあり、自分の意見がすべてだと思いこむところがある。そんな人に対して、打ち明けてみればなどという発想は危険なことぐらい。分かっているつもりだった。 
 坂口が自分の女房を他の人に紹介したいと思っているのは事実のようで、茂には会わせてみたいと思っているのも事実だった。さすがに良枝には後ろめたさがあるせいもあってそんなことを思うはずもない。
 良枝はどこか他人事だった。いくら親友とはいえ、すでに話の内容は、
「他の家庭の出来事」
 になってしまっているのだ。
 せっかく相談してくれているのに、という思いはあるのだが、他人の家の事情も分からないので迂闊なことは言えない。ただ、もし優子の旦那が坂口だと知っていたとすれば、何かアドバイスができたかも知れない。
 吾郎は、良枝が働くことに何ら文句をつけることはなかった。収入が増えるのだから、それだけ楽だという意識がお互いにあって、別に家を守るなどという古風な考えがあるわけでもないので、文句を言わないのだろう。子供ができたなどという理由ができれば別だが、それ以外で吾郎から、働くことに関して何かを言われることはないはずだ。
 良枝が今まで知っている男性の中では、
「坂口ならあり得るかも」
 という気持ちも心の中にあった。
 彼には人を束縛したがるところがあり、
「結婚したら、奥さんは大変だ」
 という気持ちもあった。良枝が坂口に対して恋心を抱かなかった理由の一つには、それがあったのだ。
 優子が良枝と知り合いなどということを、坂口も茂もまったく知らなかった。茂はともかく、坂口は良枝と会ってみたいという気持ちを抱いていたが、茂は坂口に隣の主婦が良枝だということを話していない。
 話せば良枝に会ってみたいというだろう。そうなると良枝夫婦はおろか、自分たち夫婦にもただならぬことが起こるような嫌な予感がしたのだった。

 坂口のところに訃報が飛び込んできたのは、秋も深まった十一月のことだった。まだ、結婚前だった坂口は、その内容に愕然としたのだが、飯田が死んだという知らせだった。
 さっそく、茂に連絡すると、茂のところにも連絡が行っていたらしく、坂口に連絡を入れるつもりだったと言っている。
 だが、実際には、坂口に連絡を取るつもりはなかった。自分から連絡しなくても、坂口のところにも誰かから連絡が入ると思ったのだ。万が一、連絡が入らなくても、教えるつもりはなかった。友達がいがないと言われるかも知れないが、飯田とのことを今さら坂口に連絡するつもりはなかったのだ。
 飯田が坂口の上に立っているような立場であることは分かっていた。だから坂口に今さら飯田を思い出させる必要はないという気持ちもあったが、それだけではない。三人の関係は、そんな単純な関係ではなかったという思いが茂にはあった。
 学生時代から三すくみのように感じていて、どれか一辺が崩れれば、どうなるか分からないと思っていたからだ。三人がそれぞれの立場で存在してこその安定だったはずだ。それが卒業してから何年も経っているのに、一辺が崩れれば安定が崩れるというのは変わらないと思っているのだ。
「飯田という一変が壊れた」
 それだけで不安感がいっぱいになってしまった茂は、それを自分の口から坂口に言うのが怖かったのだ。
 坂口も三すくみの関係を知っていた。知っていて、飯田から逃れようという意識がなかったのは、茂と同じように、安定感を重要だと思っていたからだろう。
 坂口が連絡してきたのは、その思いを一人で抱えておくのが怖かったからに違いない。学生時代、坂口にいいようにあしらわれた茂だが、茂の気持ちは一番分かっているつもりだった。
 逆に飯田の気持ちはよく分からなかった。何を考えているのか、茂のことをどう思っているのか、さらには、自分本人のことをどう思っているのかということも、まったく分からなかった。
 想像することはできたが、その信憑性を考えると、まったく自信がなかった。飯田という男が無表情に見えたからである。
 そういえば、坂口から、
「お前は本当にポーカーフェイスだな。もう少し表情を作ればいいのに」
 と言われたことがあった。
 何を言っているのか分からなかったが、飯田のことが分からない自分と同じ思いを抱いているということに気付くと、
「なるほど」
 と感じるようになっていた。
 坂口という男を考えると、飯田が分かってくるように思えてきた。だが、今その飯田はこの世にいない。そのことが、茂にとてつもない不安となって襲ってきたのだった。
 坂口にとってはどうだろう? そこまでの不安はないとしても、やはり三すくみの一角が崩れたことが不安に繋がることが分かってきて、まずは茂にその思いを伝えることが一番だと考えたに違いない。
 坂口の気持ちはよく分かる。だが、それ以上に今の茂は、まわりの人と関わるのが怖かった。躁鬱症の鬱状態がやってきたのだろうが、鬱状態がずっと続くと思ってもいないはずだ。
 今の状態で坂口には会いたくない。一番会いたくない人物の一人だと言っても過言ではないだろう。
 坂口が連絡してきた時は、かなり戸惑っていた。やはり、親友の一人が死んだというだけのものではなく、電話口での声を聞いただけで怯えも感じるほどだった。
「おい、飯田が死んだの、知ってるか?」
 挨拶もそこそこに本題に入ってきた。
「ああ、知ってるよ」
「どうして、知らせてくれなかったんだ」
 と、案の定坂口は責めたてた。それは分かっていたことだけに、
「君にも連絡が行ってると思ってね」
 というと、
「どうして、そんなに冷静でいられるんだ? 親友が死んだんだぞ」
 慌てていることを正当化しようとしているのが、見え見えだった。
「いや、僕だってビックリしてるさ」
 しばらく沈黙があって、
作品名:死がもたらす平衡 作家名:森本晃次