死がもたらす平衡
「そういうことではなくて、結婚した時は、夢のような感じがしたんだよ。実際に現実を忘れさせてくれるんじゃないかって思ったくらいでね。でも現実を忘れることなんてできない。結局は逃げていたことを思い出さされる結果になっただけのことなんだよ」
茂は、まわりに対して後ろめたさばかりを抱いてしまう。抱いた後ろめたさを解消すると、今度は相手に対して依存心が浮かんでくる。坂口に対しての依存心は受け止めてくれるが、由美には通用しない。
「男と女で差があるのかも知れないな」
と思う。だが、この差も自分がまわりから利用されているために生じていることを、その時はまったく知らなかったのだ。
「今度、俺の奥さんと会ってみてもらいたいんだ」
と、坂口が切り出したのは、前回会った時だった。
「どうしてなんだい?」
「見合い結婚だから、俺のことをほとんど何も知らないだろう? 俺の知り合いに会ってもらうのが一番手っ取り早いと思ってね。もちろん俺も同席するさ。そこでの会話から、学生時代の友達とどういう会話をしているか分かるだろうと思ってね」
坂口は、自分のことを人に見せつけるのが好きだという悪趣味なところがあった。茂に奥さんを会せることで、茂には奥さんを、奥さんには茂を意識させ、自分のことを見せつけようという意図があるのだろう。それくらいであれば、可愛らしいものだ。別に断る理由もないので、茂は快く承諾した。
実際、茂も坂口の奥さんに会ってみたいという思いもあった。引っ込み思案だということだったが、どんな人か興味もあった。坂口のような要領が悪い男に引っ込み思案の奥さん、大丈夫なのだろうか?
茂は今まで自分のまわりで引っ込み思案で大人しい女性をあまり感じたことがなかった。皆自分からアピールするような女性が多く、明るい人ばかりだった。妻の由美も時々何を考えているのか分からない時もあるが、明るい性格であることには違いない。学生時代小説を書いていたというが、自分をモチーフにした作品が多かったという。自分を表に出したい気持ちが強かったのだろう。
良枝にしても、友達も多く、人に好かれるタイプの女の子だった。もし、あの時自分が押しの強いオンナに引っかからなければ、普通に付き合っていたかも知れない女性である。結果はどうなったか、想像するのは怖いが、どちらにしても、人生が変わっていたことだろう。
「ひょっとすると、自分の結婚が一年早まっていたかも知れない」
などと思ったりもした。あくまでも良枝中心の考え方である。引っ込み思案なのは女性の方ではなく、自分のことであった。
坂口は結構押しが強い。それは茂が引っ込み思案なところがあるので、押しを強くしているのかも知れないと思っていたが、元々押しの強い性格で、茂のような引っ込み思案の相手が一番合うのだろう。何しろ理由を訊ねて、
「理由なんかいらないだろう」
と答えるようなやつだからである。茂が折れるしかないではないか。
坂口が奥さんを連れてやってきたのは、それから一週間後だった。
「初めまして、坂口優子です。宜しくお願いいたします」
引っ込み思案と言っていたが、挨拶はしっかりしていた。夫から説得されたのか、人に会ってみると決めた時から、度胸は据わったのかも知れない。挨拶だけを見ていると、しっかりした女性のようだ。
「こちらこそ、宜しくお願いします。ところで新婚生活はいかがです?」
「ええ、私は夫と付き合う前は、あまり男性と仕事以外でお話することもなかったので、緊張もしましたけど、出会いは新鮮でした。そのまま結婚生活に入りましたので、戸惑いながらも新鮮な気持ちでいれば、何とかなると思っています」
話の内容もしっかりしている。どこか要領の悪いところのある坂口に対して、彼女のような奥さんがいれば、坂口の家庭は安泰ではないだろうか。
それにしても、坂口が自分を奥さんに会わせようと思った意図がなかなか掴めない。それを探そうと会ってみる気がしたのに、どうやらハッキリ分かるところまで行きつくことはなさそうだ。
「妻は、短大を出て、小さな美容室の美容師をしていたんだ。その小さな美容室というのが、俺の親戚のやっている店でね。それも見合いの理由だったわけだ。彼女にちょうどいい相手がいないかということで探していたところ、白羽の矢が向いたのが、この俺だったというわけだ」
と言って、坂口は笑った。
隣で奥さんは、それを見ながら恐縮したように黙っていたが、なるほど引っ込み思案というのは、坂口が話をしている時に出しゃばらないというだけで、実際にはしっかりした女性なのだろう。
――旦那を立てるいい奥さんではないか――
夫婦にはいろいろな形があるが、坂口のような夫婦も珍しくはないだろう。坂口は奥さんを引っ込み思案だと言っていたが、決してそんなことはない。坂口も分かっていて、わざと最初に引っ込み思案という先入観を茂に与えて、そのうえで会わせてみたのかも知れない。
――何のために?
ハッキリとは分からないが、そこに坂口の計算があるのかも知れない。最初に先入観を与えて、それが間違いだということを実際の目で確かめさせると、確かめたことがより一層リアルに感じられるという心理を使ったのかも知れない。その意図がどこにあるのか分からないが、坂口なら考えそうだ。
奥さんは短大を出ていると言っていたが、茂は四年制の大学卒業者と短大卒業者とでは、少し違っているのを意識していた。四年制の大学卒業者は、やはり自分に自信を持った人が多く、短大卒業者は、自分に自信があるというより、男性社員を立てながら、縁の下の力持ちを自分の仕事だと思っている人が多そうだ。
坂口の前で引っ込み思案に見せているのは、きっと短大卒のイメージがあったからだろうが、それを茂に会わせたのには、やはり何か計算があってのことに思えて仕方がなかった。
話をしてみて、几帳面であることがよく分かった。話も理路整然としていて、論理立てての話なので、納得いくところが多い。論理立てて話をする人の中には、話を難しくしようとしている人もいるがそんなことはなく、実に分かりやすい内容だった。彼女自体の雰囲気も、インテリ風ではなく、清楚な雰囲気を味あわせてくれる。坂口が気に入ったのもそのあたりにあるのだろう。
坂口の話と奥さんの話を聞いていると、自分も由美のことを考えてしまう。結婚してよかったかどうかなど、まだ分かるはずなどないが、現時点では、坂口も茂の方もよかったのではないかと思うのだった。
茂が優子に会ってみたいと思っているのか気になるところだ。茂は坂口のことをどう思っているのか、坂口には気になるところだった。
「きっと、不器用なやつだ」
と、思っているに違いない。それならそれで構わないのだが、茂も同じ見合いじみた結婚だとは思わなかった。坂口は自分の結婚を見合いだとは言っているが、決して普通のお見合いとは思っておらず、区別して意識していた。それだけに、ずっと友達として付き合ってきた相手が同じような結婚の仕方をしていることに不思議な因縁を感じ、思わず苦笑いをしてしまうのだった。