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死がもたらす平衡

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 由美には男性を見る目がないという意識が常にあり、ただ、それは自分の勝手な思い込みだった。
 一つのことを考えるとまわりが見えなくなる神経質な性格である茂と結婚したというのも、縁なのかも知れないと、由美は感じていた。
 由美がそんな女性であるということを、茂は知る由もなかった。どこか変わったところがあるとは感じていたが、お見合いで結婚したのだから、まだまだこれからだという思いの方が強い。
 小説を書くために自分がしている行為に対し、罪悪感がない由美は、感覚がマヒしてしまっているのだろうか? 自分を正当化してしまわないと、なかなか承服できない性格である。納得させられるだけの性格ではない。それは自他ともに認めるところだろう。
 仕事を始めると、本当に一人になってしまった。孤独感が襲ってくる。由美は孤独感には人一倍敏感な女性だった。
 寂しさは鬱病に繋がってくる。憂鬱な精神状態に陥ると、何をしていいのか分からなくなる。それまでできていた予知もできなくなり、眠っていても、夢すら見なくなった。
 だが、実際に夢を見ていないわけではない。夢を見ることができないという夢を見ているのだ。まるで笑い話のようだが、本人にとっては辛いことだった。夢を見ることがストレス発散だと思っていただけに、逃げ場を奪われた感覚である。
 夢が見れないとなると、どうやってストレスを発散させればいい?
 由美は、パチンコに嵌った時があった。今でこそパチンコはしていないが、あの頃の自分を思い出しと、吐き気がしてくるようだった。
 タバコを吸わない由美であったのに、よくあのタバコ臭い環境に耐えられたものだ。今では喫茶店で禁煙席にいるにも関わらず、少しでもタバコの臭いがしてきただけで、吐き気を催すのだ。そんな由美が耐えられただけ、パチンコ屋での自分は、普段の自分とは違っていると思っていた。
――だが、あれが本当の自分なのかも知れない――
 とも思った。
 パチンコに興じる自分は集中している。他の時は集中力が散漫なのに、パチンコ屋にいる時だけは、集中できるのだ。
「小説を書いている時のことを思い出す」
 と感じるが、同じ集中力でも少し違う。小説が予知によってもたらされ、書くことができるようになったと思っているからだ。小説を書いている時の自分が本当の自分なのかというのは、今でも永遠のテーマに思えていたのだった。
 茂が見たベランダの光景、リアルではあったが次第に、
「やっぱり幻だったんだ」
 と思うようになっていた。こんな錯覚を見るくらいなので、神経質と言われるのだと思ったが、茂は由美が躁鬱症であることには気が付いていた。
 以前ほど由美は鬱状態に陥ることはなかったので、普通なら気付かないかも知れない。だがそのことに気付かせたのは、実は鬱状態ではなく、躁状態があるからだった。
 躁状態もそれほど目立つものではない。それなのに、どうして分かったかというと、茂自体、躁状態を知らないからだった。だが、躁鬱症の人を知らないわけではない。それが母親だったのだから、茂としては、切実なものでもあった。
 母親は、茂が生まれてから躁鬱症になったという。茂の父親は猜疑心の強い人で、自分の妻、つまり母親が以前から付き合っていて、結婚を機会に別れた相手がいるのを知っていることで抱いたもののようだった。
 結婚する時には、すべてを水に流すという話だったから結婚したのに、実際に結婚してしまうと、豹変したのだった。
 それまで優しかった夫が高圧的になり、自分がすべてを支配しなければ我慢できなくなった。そのくせ優柔不断なところがあり、いい加減だったのだ。救いようのない性格なのだが、結婚してしまった以上、従うしかない。
 母には離婚する勇気もなかった。そんなことを思っているうちに、妊娠したのだ。父親は母を責めた。
「あなたの子よ。間違いないわ」
 と言って弁解したが、なかなか納得しない父は、時々酒に酔っては、母を罵倒し、暴力も振るったようだ、それでも子供に手を出さなかったのだけは救いだったが、そんな父が病気でポックリ行ってしまったのだ。
 母はすぐに再婚した。運が良かったのか、その人はいい人だった。それでも後遺症として躁鬱症は残ってしまい、母親を見ていると辛くなって仕方がない。ただ、途中から躁状態が急に強くなった時期があった。それまでの鬱状態の反動だということらしかったが、子供から見ていると、怖かった。
「躁状態というのは、ある意味鬱状態よりも怖いかも知れない」
 茂はそう感じた。
 まさか結婚相手に躁鬱症があるとは思っていなかったが、妻を見ていると、結構躁鬱症というのは、誰にでも潜んでいるものだということを思い知らされた気がした。
「僕の中にもあるのかな?」
 人を見ると、躁鬱症への偏見の目で見ていることに気付いてハッとすることもあった。それが嫌になった時期があったくらいである。
「本当に、僕は人を好きになったことってあるのだろうか?」
 精神に異常をきたした時期があり、オンナが信じられなくなったが、本当に好きになることができないという弊害を残すことで立ち直れた気がした。立ち直りは開き直りであり、失ったものの大きさで感覚がマヒしてしまった気がしたくらいである。
 茂は、結婚前はあまり余計なことを考えない性格だった。それは今も同じことで、今までの波乱万丈の人生を思い出すだけで悲惨な気持ちになってしまう。何も考えないようにしようと思っているから、躁鬱症にもならないのかも知れない。
 見合い結婚をしたのも、何も考えずに結論が出るからで、怖くないといえばウソになるが、恋愛結婚をしても、今までの経験から、自分が信じられないのだから、それならば自分の運命を他人に託すのもいいかも知れない。いざとなれば離婚すればいい、どうせ自分で決めた結婚相手ではないのだから。
 しかし、それは自分から離婚を考える時で、相手から離婚を言われるところを考えたことはなかった。恋愛であれば、いつ別れを切り出されるかドキドキしているのだろうが、見合いであれば、相手から離婚を切り出されることはないと思っていた。
「相手だって見合いするということは、今までにいい出会いがなく、行き遅れたのだから、見合いに関して言えば、男性の方が有利だ」
 という根拠のない考えを持つようになっていた。
 自分で考えた理論ではなく、言い出したのは坂口だった。
 学生の頃、
「結婚相手なんていくらでもいるさ。最悪見合いしてしまえばいいんだ。今はお見合いパーティなんていうのもあるから、女性も行き遅れている人が多いのさ」
 と、いう話だった。
 乱暴な発想だが、一理ある。男女の交際の場を提供するのがお見合いパーティ。お見合いと言っているが、恋愛を演出しているだけで、ある意味、恋愛に近いものがある。実は茂も何度か参加していたが、
「これって、恋愛と同じじゃないか?」
 と思ったほどだった。
 恋愛パーティでカップルになって知り合ったとしても、長続きするとは限らない。そこから先は相性であったり、気が合うかどうかである。茂は自分から相手を遠ざけたことはないが、相手と自然消滅はあった。お互いに相性が合わないと思ったのだろう。
作品名:死がもたらす平衡 作家名:森本晃次