死がもたらす平衡
と、今日一日のことを思い出してみたが、やはり、良枝との記憶は封印されたままだ。それを茂は、
「パチンコで大爆発したために記憶が飛んじゃったかな?」
と思うようにした。明らかに記憶が封印されてしまった説明がつかないことへの言い訳でしかないのだが、それも無理のないことだった。今さらお互いに結婚している同士、わだかまりが解けたという意識だけでいいではないか。
「わだかまりが解けただけでいい?」
分かっているではないか。それ以外に自分は何を意識しようとして、記憶に封印してしまったというのだろう。わだかまりが解けたことに対して、良枝との間では、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。後は。お互いに隣室の夫婦として、普通に挨拶をする程度の近所づきあいができればそれでいいのだ。
「それにしてもさっきのベランダでの人影は誰だったのだろう?」
「間違って隣のベランダを見てしまった?」
だが、その時良枝は体調を崩し、横になって寝ていたということを、茂はおろか、他の誰も知る由もなかったのだ。
茂は幻を見たと思った。思い込みが激しいところがある茂は時々、幻を見たと思うことがあった。思い込みが激しいせいか、まわりの環境の変化に対応できず、ついついまわりに流れされてしまうことが多いようだ。だから、学生時代に良枝から好かれていたのを分かっていたにも関わらず、後から現れた押しの強い女性に、半ば強引に付き合う羽目にされてしまったのだと思った。
自分が蒔いた種ではあったが、それでも随分と悩んだものだ。今でもその思いはあり、肩の荷をやっと下ろせたことは、本当に嬉しかった。
冬の雪が降っていた日、自分を強引に付き合わせたくせに、その女性は半年もしないうちに別れを切り出してきた。
自分にはまったく悪いところはないと言わんばかりに胸を張り、理由を聞くと、
「他に好きな人ができたから、あなたとはもう付き合えないの」
と言うではないか。
「それはどういうことなんだい?」
「どういうことって、あなたとかこれきりということよ」
まったく未練などないと言いたげだった。
「付き合って行くうちにお互いの思いは深まっていくものじゃないのか?」
というと、相手は笑いだした。
「そういう型に嵌った思い込みが嫌なのよ。融通が利かないというか。本当にそう思ってるの? 人の気持ちって刻々と変わるものなのよ」
「僕のそういう性格を好きになってくれたんじゃないのかい?」
「確かに最初は新鮮だったわね。でも、押しつけがましいのよ、その性格はね。堅物と言ってもいいくらいだわ。要するに私はあなたに飽きたのよ。分からないの?」
そんな勝手な理屈があるものか。別れを一方的に切り出して、その理由が「飽きた」と言われたのでは、どうすればいいというのだ。
確かに女性は相手と別れる時の理由として、我慢していることがあったとすれば、ギリギリまで我慢して、我慢できなくなったところで、つまり開き直ったところで相手に切り出すのだと聞いたことがあるが、それは殊勝な気持ちを持った女性であれば分かると言うものだ。しかし、この女に限ってはそんなことはない。最初から男を舐めているとしか思えない。そんなオンナに未練など持つ必要などないのだろうが、悔しさでいっぱいになってしまった頭には血が上ってしまい、制御が利かなくなった自分がいるのを感じていた。
――こんな女、どうなってもいいんだ――
と思いながらも、置き去りにされた気分は拭えない。復讐してやりたいくらいの衝動に駆られたが、何とか思いとどまった。復讐するにしても、手段が思いつかないからだ。そのうちにさらに内に籠る性格になってしまい、しばらく精神的に立ち直れない状態が続いた。女性と付き合うことも嫌で、そばに女性が近づくだけで鳥肌が立つほどだった。
良枝はそんな茂を知っていたはずなのだが、良枝にだけが知られたくないと思っていた。卒業とともに忘れてくれることを願ったが、会わないだけでもありがたかった。営業の仕事も最初は辛さが残ったが、一人になると次第に自分の世界を作ることができて、そこまで来れば立ち直るのは時間の問題だった。
良枝はそんな茂を知らなかった。自分から避けているところもあったので、自分がシナリオ専門であったことは幸いだと思った。もし演劇のメンバーだったら、人の中に入ってしまって、会話が辛いと思っただろう。そういう意味では、学生時代の前半は、少し切ない時期があったのだ。
元々が優しくて情に脆い性格なので、友達は自然とできた。彼氏らしい人もいたが、なかなか続かなかった。相性が合わなかったというのが、本音だったに違いない。
茂は、外された梯子をすっかり忘れてしまっていた。仕事を始めてからも、坂口が友達としていてくれたことも頼もしかった。
坂口のような計算高さはなかったが、見習いたいところはあった。ただ、計算高いくせにどうして要領が悪いのかが少し疑問だったが、人間らしくて、付き合って行く分には、却って暖かみがあってよかった。
坂口は演劇部だったが、卒業してからは、普通のサラリーマンになった。彼も別に演劇で食べていこうという意識はなかったのだ。ただ仕事は営業ではなく、総務の仕事だった。演劇のように表に出る仕事から、総務のような裏方で精神的に大丈夫なのかと思ったが、実際にやってみると、楽しいという話だった。
「結構、自分で計画、立案して、それが採用された時なんて、喜々とした気分になってね。それをまわりが組み立ててくれるというのも、冥利に尽きるというものさ」
「なるほど」
話を聞いて納得した。確かに部長までしたのだから、それくらいの考えがあってもいいだろう。
坂口は学生時代の恋愛を時々思い出す。
妖艶な女性に引っ張ってもらって、いい相手に巡りあったが、自分の友達である茂は同じように妖艶な女性に無理やりにでも付き合わされ、悲惨な思いをした。だが、本人は今では、
「いい勉強になった」
と言っている。それだけ一皮も二皮も剥けたということだろうか。
性格的に正反対な方が友達になった時に長続きするのではないかというのが、二人の共通の意見だった。
坂口は、先輩と別れてから、もう二度と同じような女性が目の前に現れることはなかった。先輩と別れた時は感じなかったが、
「こんな素敵な女性は、二度と僕も前には現れないんだ」
と思ったことだった。
それから何度か女性と知り合い付き合ったりもした、だが、先輩のような女性は現れない。先輩のような女性というのは、妖艶でありながら、相手の気持ちをすべて察してくれている。言いたいことを言わなくても分かっていてくれるそんな女性のことだった。
だが、その中に吾郎と関係のあった女性がいた。吾郎と付き合ったわけではないが、吾郎のことを弟のように思っていた女性だった。
吾郎は、本人には意識はなかったが、女性から好かれるタイプだった。付き合い始めると微妙な違いに女性が気付いてしまうようなのだが、見た目は女性から好かれるタイプであることには違いない。