死がもたらす平衡
今までの吾郎であれば、それほど大した悩みを感じなかったからなのか、途中で開き直り、今度はまったく気にならなくなってしまう。さっきまで何を気にしていたのかということすら忘れてしまうくらいである。開き直りがどれほど大きな影響を自分に与えるかということを知っていたのだ。
良枝が自分を見ていたということを、吾郎は部屋に入った時、
「自分の錯覚だったのかも知れない」
と思った。
なぜなら、帰り着いた時、良枝はまだベランダにいて、表を見ていたからだ。もし、自分と由美が一緒のところを目撃したのであれば、見ていなかったという素振りを見せようと、家事に勤しんでいる姿を見せただろうと思うからだ。
だが、それは自分に都合のいい発想なのは、よく考えれば分かることだった。表で見ている方が、よほど何も気付かなかった証拠ではないか。下手に小細工する方が却って怪しまれる。相手が自分を見ていないという発想のもとであれば、家事に勤しむのが一番いい方法であるが、
「自分に見えるのだから、相手にも見えるはずだ」
という発想がどうして生まれなかったのかが、不思議だった。
「どうしたんだい? 表なんか見て」
と、不用意にも声を掛けてしまった吾郎だが、
「ちょっとボーっとしたので、頭を冷やそうと表を見ていたの」
と答えた良枝。二人はそれぞれにその日秘密を持ったのだが、相手に対して不思議と罪悪感が湧いてこなかった。良枝は帰って来てからボーっとした時間を持て余していたからだが、その間に茂を思い出すことはなかった。ただ、今までの呪縛が解けたようで、肩の荷が下りたことでの脱力感が支配していたのだろう。
茂の方は部屋に帰ってから、少しだけ家にいて、それから表に出た。元々、出張から帰ってきて、荷物を片づけるつもりだった。片づけたあとは、いつものことだが、一寝入りするつもりだったのだ。
ちょうど帰ってきたところで良枝と出くわし、その日の予定が狂ってしまった。良枝とのわだかまりが解けたのは嬉しかったが、予定が狂ったのは計算外だった。あまり計算高い方ではない茂だったが、それだけに無意識にでも立てていた計画が少しでも崩れると、精神的なショックはないのに、わけもなく調子が狂ってしまうのだった。
「寝るには中途半端な時間かな?」
しかも一旦良枝と会うことで入ってしまった気合いを抜くのは難しかった。このままシャワーを浴びて布団に入っても、とても眠れそうにないと感じたからだ。
「そうだ、通りの向こうに最近開店したパチンコ屋があったな」
と思い立って、出かけてみることにした。午後四時近くになっていたので、だいぶ涼しい時間帯だ。一人でぶらぶら出かけるにはちょうどいいだろう。
角を曲がって、見えてきたパチンコ屋に入った。出張先では時々時間が余るとパチンコをしたが、地元ではほとんどやらない。妻の由美も茂がパチンコをするなんて知らないに違いない。
家では真面目さを振りまいていた。学生時代も真面目だったこともあり、良枝も茂がパチンコをするなど知らないだろう。パチンコを始めたきっかけは、営業の帰りに時間ができたことだった。ビギナーズラックに嵌ってしまい、後は時間がある時に出かけては、お小遣いの範囲内で楽しんでいた。
茂はパチンコ台の前に座り、玉を弾いていた。普段はパチンコをしながら何かを考えるということはなかったのだが、その日は、先ほどの良枝との会話を思い出していた。
良枝と何かわだかまりがあったような気がしていたが。それが一体何なのか、次第に記憶から薄れていった。
「何をあんなに気にしていたんだろう? それに対して俺も答えを返していたようだが……」
わだかまりのことを考えていると、今度は良枝との過去の記憶すら薄れていき、自分が過去に彼女と知り合いだったことすら、意識から消えてしまっていくように思えたのだ。
「これは一体どういうことなのだろう?」
時々、自分の中から記憶が消去されていくような気がしていたが、今回のように、実際に意識して消えて行くのは初めてだった。
「何か都合の悪いことを忘れようとしているのだろうか?」
そんなことを考えていると、目の前のパチンコ台に、
「激熱」
の文字が光り、真っ赤になったかと思うと、金色に盤面が変わっていった。ギミックの落下などあり、大当たりは目の前だ。それまで考えていた頭がさらに真っ白になり、気が付いたら、良枝との記憶はほとんどなくなっていた。
大当たりの盤面に茂は、いつになく興奮していた。普段から見慣れてはいたが、この興奮があるから、パチンコは辞められない。大切なことかも知れない記憶が消されても、すでに意識の中にはないことだった。茂の意識はそのまま盤面に集中し、時間はあっという間に過ぎていった。
確変に確変が重なり、久しぶりの大爆発だった。十連チャン以上したのは久しぶりだった。時間的にも陽はすっかり落ちていて、表はネオンサインで眩しかった。
気が付けばお腹も空いている。このまま帰れば時間的にもちょうどいい。妻の由美が帰ってくるより少し前に帰ることができるだろう。茂の頭の中には大爆発したパチンコ台の意識しかなく、良枝のことは記憶の奥に封印されてしまったようだ。
夜のとばりの中を歩いていると、マンションの自分の部屋が見えてきた。茂は、マンションが近づくと、自分の部屋のベランダを見るのがくせになっていて、その日もいつものようにベランダを見ると、人影が見えた。
「あれ? 由美が帰ってきているのかな?」
少しバツの悪さを感じたが、パチンコで負けたのならいざ知らず、勝っているのだから、罪悪感を感じることもなく帰ることができる。
「そういう問題ではなくて」
と、パチンコのことが分かれば、きっとそう言われるだろうが、大爆発は精神的に大らかな気分にしてくれたこともあって、気が大きくなっているのだった。
足にだるさを感じ、急いで部屋に帰ろうと思ったが、なかなか足が先に進んでくれない。今日一日がいろいろあった証拠だろう。あっという間に過ぎた気はしているが、朝の時間帯を思い出そうとすると、かなり前だったように思うからだ。
それでも何とか部屋まで上がると、
「ただいま」
と言って、カギを開けて扉を開けた。
「おや?」
まだこの時間は暑さが残っているはずなのに、足元から溢れてきたのは、冷たい空気だった。懐かしさを含んだその空気は、中に誰もいないことを証明してくれる空気だった。実際に部屋はどこにも玄関に照明はついておらず、人の気配も感じられない。ただ、奥の部屋だけが電気をつけたままだった。時々、電気をつけたまま外出することのある由美だったので、不思議でないか。それでもいないことに、
「おかしいな」
と感じ、玄関から中に入り、片っ端から見て回った。誰もいるはずのない部屋を覗くのは勇気がいった。さっき、ベランダから人が見えたからである。
「疲れているんだろうな」
錯覚だったとしても、それは自分が疲れているからで、疲れを感じると、一気に身体に重さを感じた。
「そういえば、数日前から風邪気味だったな」
大人しく寝ていれば治ったかも知れないと思ったが、
「まあ、仕方がないか」