死がもたらす平衡
坂口は、人を好きになるよりも、好かれる方が好きだった。何事も受け身な性格であることを分かっていたので、演劇部の先輩の誘惑を心地良く感じたのだ。
先輩に言われた言葉が頭から離れず、もう一つの自分の性格を考えてみた。自信を持つこととは違い、表に出ている性格を隠れ蓑にしているのかも知れないと思うと、誘惑されたことも、決してこちらが下手に出ることもないことを教えてくれた。
「そうよ、あなたは、私と対等、あるいは私を引っ張って行ってくれるだけの器量を持っているのよ」
まるで洗脳されていくようだった。
茂は、そんな坂口を見ていたのでよく分かっていたが、良枝が入部したのは、変わっていく気持ちの変化が終わった後であり、先輩も就職活動で、引退したあとだった。表に見えている頼りなくて、要領の悪い坂口しか良枝は知らなかったのだ。坂口のもう一つの性格は、相手が先輩だから表に出せるのだった。もし、坂口の性格を垣間見ることができるとすれば、先輩に匹敵するような、妖艶な女性が坂口の前に現れる必要があるだろう。
茂が坂口と久しぶりに会ってしばらくして、良枝は玄関先でバッタリと、帰宅してきた茂と出くわした。お互いに気まずい雰囲気を感じさせないように、
「こんにちは」
と、気軽に挨拶して、それぞれの部屋に入ろうとしたが、すぐに入らず、お互いに入ったふりをして、再度扉を開け、隣の部屋の扉を見た。
すると、相手も同じ行動を取っているではないか。思わず顔を見合わせて微笑んでしまった。この微笑みが完全に二人の間にあるわだかまりを打ち消したわけではなかったが、それでも笑顔は随分と助けられた。お互いに話をしてみたいと思うに十分な笑顔だったのだ。
良枝は扉を閉めると、茂に近寄っていった。これには茂もビックリしたが、
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「はい、何とか元気にしてました」
「何とか……」
というのは、茂の口癖でもあった。どう答えていいか分からない時、この言葉が漠然としていて苦笑いをするには一番だと思ったのだ。バツの悪さを照れ隠しにするには、ちょうどいい。
「ちょっといいかしら?」
「えっ?」
「お時間がありましたら、そこに喫茶店がありますので、ご一緒していただけます?」
時間はまだ昼下がり、朝から少し体調が悪く、仕事を休んだ良枝には時間があった。
近くの喫茶店には、今まで一度も入ったことがなかった。この喫茶店には、マンションの奥さん連中も来ないので、変な噂を立てられることもなかった。マンションから反対側の通りにある喫茶店を常連としているので、こっちにほとんど人が流れてくることはなかった。
「学生時代のことは、もう忘れましたから、茂さんも忘れてください」
いきなり良枝は本題に入った。気になることを先延ばしにして、世間話から入れるような性格ではなかったのだ。普段は気さくで明るい良枝だが、それもわだかまりがないことが前提だった。
「分かりました。僕もいろいろわだかまりもありましたが、肩の荷が下りて気が楽になりましたよ」
茂はそう言って、安心したようだ。良枝の性格はただ明るいだけだと思っていたが、思ったよりも神経質なところがあり、自分なりのこだわりがあると分かったことも、茂には新鮮だった。
「改めて、宜しくお願いします」
良枝としては、隣の夫婦の奥さんとして、よろしくと言ったつもりだったが、茂の方からすれば、
――何をよろしくなんだ?
と、一歩踏み込んで考えてしまった。ただ、この時はそこまで深くは考えていない。わだかまりが解けただけで、お互いによかったと思うことが、お互いを卒業できた気になれたのだ。
二人が喫茶店で話をしているその日、まさか、お互いの伴侶も他の場所で会っているなど、想像もしなかった。喫茶店で話をしていたのは、二時間ほど、後で思い出してもどんな会話だったか思い出せないほど、感覚的にはあっという間だったはずだ。お互いに自分の部屋に入ってからは、お互いの家庭のことを思い出し、たった今の記憶を心の奥に封印しようという暗黙の了解を忠実に実行していた。
良枝は、時間を持て余していた。あまり身体が強くないこともあって、たまに会社を休むことはあったが、そんな時は、寝ているだけだった。吾郎には心配を掛けたくないので、休んだことはたまにしか言わない。特に生理痛が激しい時など、腰が痛くて起きることさえ億劫になることもある。そんな時は気分転換にテレビを見ていたが、痛みもあるせいか、テレビを見ていても、内容までは覚えていないのである。
だが、その日は、テレビをつけても、最初から頭に入ってこない。映像が動いているのも分かるし、声が聞こえてくるのも分かるのだが、それぞれが独立したものに感じ、違う意味で、あとで覚えていないのだ。そういう意味では、なかなか時間が経過してくれない。頭や腰が痛くて横になりながらテレビを見ている時は、意識が朦朧としているので時間の感覚はないが、後から思い出すとあっという間だった気がする。それに比べて、意識があるのに漠然としてテレビを見ていると、時間が止まってしまったかのように思えてくるから不思議だった。
――あの人のことを考えているからかしら?
あの人とはもちろん茂のことだ。お互いに考えないようにしようという暗黙の了解だったが、不可能ではないかと思うと、壁一つ隔てた隣にいる茂も、自分のことを考えてくれているのではないかと思い、ドキドキしてしまう。意識されてドキドキしない女性などいないに違いない。
胸の鼓動はしばらく続いたが、次第に落ち着いてきた。表を見るとそろそろ日が沈みかけている。さっきまであれほど時間が経つのが遅いと思っていたのに、すでに夕方になっていたのだ。我に返った良枝は、テレビを切り、夕食の準備を始めた。いつもより早いがここからの時間はあっという間に過ぎるのではないかと思うと、行動を起こすのは気が付いた時に限ると感じた。
その思いは間違ってはいなかった。日が沈むのを意識すると時間が経つのは早かった。夕食の支度を終えて、一息ついていると、ふっと、部屋の中の空気が止まっていることに気が付いた。冷房は入れているが、閉め切った部屋を少し換気する意味で、ベランダに続く扉を開けて、少し空気を入れ替えた。ベランダまで出る気はしなかったが、網戸を通して、表の道を見ていると、普段見たことのない景色であることに気付き、しばらく表を見ていた。
良枝の方からは見えなかったが、ちょうどその時、表の道を歩いてきた二人、吾郎と由美がいること、そして吾郎が自分を見ている良枝に気付いて、ドキッとしていることなど、知る由もなかったであろう。
吾郎は良枝に見られたと思っている。その時はドキッとはしたが、あまり気にしなかった。ただ、吾郎は元々が神経質なところがある性格である。神経質だということは、心配性でもある。余計なことを考えてしまって、時間が経つにつれて、心配が募ってくる。悩んでしまって、病気になったりする人もいるだろう。