短編集52(過去作品)
工場の影響をまったく受けないわけではないだろうが、それでも丘が工場の存在を意識させないはずである。分譲住宅が立ち並び、学校や郵便局、病院と、すでに住宅街としての機能は整っていた。
静香のパート仲間の主婦が、住宅街に住んでいる。コーポ暮らしの静香にとっては羨ましい限りであるが、いずれは自分たちも一軒家を持ちたいという夢を持っている。若いうちは夢であっても何ら問題なく、憧れが妬みに変わることはまずないと意識していた。
住宅街への興味は深く、もし、
「遊びにいらっしゃいよ」
と言ってくれれば、いつでも遊びに行くつもりでいた。
「今週、旦那が出張でいないの。遊びに来ない?」
と誘ってくれたのが二週間前、予定を整えて遊びに行ったのが、先週だった。
初めての住宅街。話には聞いていたが、思ったよりも坂がきつい。
バスが三十分に一本出ていて、朝夕の通勤時間帯は。もう少し本数は多いようだ。駅前の洋菓子屋でケーキを買って、お邪魔することにした。
その洋菓子屋は静香のお気に入りだった。たまに贅沢でケーキを買って帰ると、だんなが喜ぶのである。もちろん、静香もケーキが好きだが、旦那は男のわりには甘党である。タバコも酒もあまりやらないところが気に入っただが、甘党には最初ビックリした。
ビックリしたといっても、悪い印象ではない。自分も甘党なので、同じ話題で話ができることが嬉しかったのだ。旦那が仕事の帰りに気を利かせて買って帰ることもあった。
ケーキがあれば、コーヒーか紅茶、静香は紅茶派で、旦那はコーヒー派。それでも香りはそれぞれ嫌いではないので、ケーキを前にしている時は、満面の笑みを浮かべ、まるで子供のようである。
ケーキを買って友達の家の近くのバス停まで行くと、友達が待っていてくれた。
「いらっしゃい」
何となく余裕を感じる笑顔だ。招く方は家を自慢したいところもあってか、優越感に浸っている笑顔にも見えるが、招かれる方が嫌味を感じないのだから、優越感も感じない。
友達の家まで歩いて五分ほどということだが、それまでにいくつもの角を曲がる。曲がるたびにいつも同じような光景が広がっていて、まるでまた同じところに戻ってきたのではないかと思えるほどだ。
「まるで迷路みたいでしょう?」
彼女は、静香が住宅街へ行ったことがないことを知っていた。知っていて敢えて招いてくれたのだ。そこには友達としての親しみこそあれ、嫌味は存在しない。
「よく迷わないわね」
あたりを見渡しながら歩いているが、家にもあまり個性がなく、本当に似たような家が並んでいるに過ぎないとしか思えない。
「大丈夫よ。自分の家だもの」
と言って、笑顔を見せたが、その時初めて嫌味な感じを少しだけ受けた。だが、それも相手は無意識なだけに憎めない。友達としての意識をさらに強めようと考えた。
最初の角を曲がって、次の角までの光景が目に焼きついている。そして次の角を曲がると、まるでまた同じ角を曲がったかのような同じ光景が飛び込んできた。
――あれ――
だが、どこかが違う。さっきよりも範囲が狭くなったように思えた。
子供の頃に見たものが、大人になって初めて見ると、最初に感じていたよりも小さく感じられる。子供の目線と大人の目線の違いでもあろうが、それよりも記憶の中で封印していたことが無意識に膨れ上がったからかも知れない。
――ひょっとして昔にも同じ光景を見たのかも知れない――
と感じたが、その思いを心の端に抱きつつ、さらなる思いが頭を巡る。こちらの方が少し科学的ではあるだろう。
影である。
光を受けて影ができる。角を曲がるということは、太陽の位置が変わるわけなので、影の位置が変わってくるのも当然だ。太陽の光と反対側に曲がって、太陽を背にするように歩いている。だから影の部分が大きく、暗く感じられる。暗く感じられると、それだけ鮮明に見えてくるので、範囲が狭くなったように感じられるであろう。そのことを短い間に感じていた自分にビックリしてしまった。
「これを毎日歩いているのね」
「ええ、でも毎日歩いているとマンネリ化してしまって、目を瞑っても歩けそうよ」
「目を瞑ってすぐに開けると、どう見える?」
「範囲が最初よりも狭く感じられるでしょうね」
静香が期待していた通りの回答で、思わずほくそ笑んだ。
歩きながらいろいろなことを考えるのが好きな静香だが、友達と一緒に歩いている時も、考えることをやめなかった。時には面白い考えが浮かんだ時には、友達を自分の考えていることの話に巻き込んでしまうこともある。そのため、友達の中には静香のことを、インテリか変わり者だと思っている人もいるだろう。
だが、それでもよかった。あまり自分から話題提供のない静香だったが、人と違った話題提供ができることに満足している。集団を作ることがあまり好きではない静香は、人と同じことをすることが好きではないからだ。特に集団で行動してしまうと、まわりが見えなくなり、それよりも、客観的に自分を見た時に、
――これは本当の自分ではないんだ――
とその他大勢の自分を否定してしまうことを嫌った。
友達と歩きながら二回目の角を曲がった時だった。友達が呟いた。
「そろそろ半分くらいは歩いたかしら」
ということは、後二回、同じような角を曲がると意識していた。
曲がってすぐに前に見える角を曲がる人の横顔が見えた。その人は女性で、見覚えがある。
思わず隣にいる友達の顔を覗き込んだが、その横顔とそっくりではないだろうか。曲がったところを一瞬だけ見ただけなので、本当に曲がった人がいるのかどうかも後から考えれば疑わしい。
――残像が残っていたのかしら――
しかし、住宅街自体が初めてなので、角を曲がるシーンの残像が残っているはずもない。何とも不思議な感覚だ。
だが、反射的に横を向いて友達の横顔を覗くシチュエーションは初めてではない。一緒に歩いていて時々隣の人の横顔を覗き込むのは、半ばくせのようなものだった。今までにも彼女の横顔を覗き込んだことも何度もあった。それは話をしていて、自分の話題にどのような表情をするのかを垣間見るためのもので、静香以外の人も同じ経験はあるに違いない。
歩いているうちに次の角に差し掛かっていた。考えごとをしていると、思ったよりも早く時間が経ってしまうようで、目の前に広がっていた景色を見ているのに、自分の中で残像が残っていないのだ。
角を曲がると、さらにまた同じような光景が広がっていた。
だが、今度は、途中に公園があり、今までとは少しおもむきが変わっている。さっきまでの角を曲がって見えた光景は、そのほとんどが住宅だけだったからだ。
「公園の向こうには郵便局もあるのよ。その向こうには、学校があるの。学校と郵便局の間にバス通りがあるんだけど、循環バスの帰り道になるのね。だがら、少し遠いんだけど、さっきのバス停で降りた理由は歩く距離を考えても、こっちの方が早いのよ」
角を何度も曲がってきているので、方角がさっぱり分からなくなってきているが、帰りはどうやら分かりやすそうだ。静香は公園の横を通り過ぎる時に、中を覗きこんだ。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次