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短編集52(過去作品)

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 別に疲れることをしたわけではない。しいて言えば、午後からが最初はあっという間に過ぎたような気がしていたのに、日が暮れてから昼下がりを思い出すと、かなり前だったように思えてならない。
 駅前に到着すると、呑み屋のネオンサインが気になっていた。元々約束していた友達とは、学生時代によく呑みに行ったりすることが多かったので、今日もあのまま彼女が現れれば、このあたりに顔を出したことだろう。
 学生時代に比べれば少し寂しくなったように感じるのは自分が年を重ねたからかも知れない。いや、年齢的なものよりも、結婚という節目を越えたことにあるのかも知れない。
 学校を卒業し、OLとして働き始めた時も、不安がいっぱいだった。だが、実際に就職してしまうと、何とか順応できるもので、漠然とした言い知れぬ不安を感じている時が一番辛かったかも知れない。それは結婚する時も同じで、結婚前に抱いていた不安を旦那が拭い去ってくれた。その意味では非常に感謝している。だからこそ、今でも新婚気分が抜けていないのだろう。
 だが、それが甘えになってしまったのではないかと思えることもある。人に依存してしまうと、自分の中で抑えが利かなくなってしまうかも知れないとは、ずっと感じていたことだ。それなのに、どうしても甘えてしまう。
 静香は、母親を高校時代に亡くしていた。家族の中で一番信頼できる母親を亡くしたのだ。家族の中というだけではなく、自分に関わっている人間の中でも一番と言える母親を亡くしただけに、そのショックは計り知れないものがあった。
 母親が生きている時は、結構母親に甘えていた。亡くなってからというもの、気丈に生きなければならないという気負いが強くなったのも事実で、誰かと話をする時も、一歩下がって話を聞くようになっていた。
 話の中に入り込みやすい性格を母親からも指摘され、
「あなたは、すぐに話を真剣に聞いてしまうので、時々一歩下がって落ち着いて聞く耳を持った方がいいわよ」
 と言われていたのを思い出した。
 母親はどんな時も落ち着いていた。静香にとっては母親としてだけではない何かを感じていた。だが、その母親が一人になると、急にビクビクし始めることがあった。学校から帰ってきて、声を掛けられないほど何かに怯えている母親を襖から垣間見て、静香自身も何か目に見えないものに怯えている錯覚を覚えるのだった。
 静かに襖を閉め切り、その場に立ち竦む。静寂の中で耳鳴りを感じ、母親も同じ耳鳴りを聞いているのを感じることができる。
 そんな母親の光景を何度か目撃した。それはまるでビデオテープを見ているかのようにまったく同じシチュエーションの同じ明るさで、同じ静寂だった。
――ひょっとして見たのは一度だけだったのかも知れない――
 そんな風に感じさせるに十分であった。
 母親は音に敏感だった。いつも温和な性格であったが、高い音、低い音には極度な怯えを見せた。神経質な人ならそれくらい当たり前であろうが、どちらかというと気丈な性格の持ち主である母親には意外な一面だった。
 工場のサイレンの音もその一つだった。
 夕方になると、耳を塞ぐ光景を何度見たことだろう。工場から響いてくる金属音が気になることはない。工場や救急車のサイレンの音には怯えを感じるのだ。
 夕方になってまだサイレンが鳴っているわけでもないのに、急に耳を塞いでいた。母が耳を塞ぐのから若干遅れてサイレンの音が鳴り響く。耳を塞ぐのを見て、サイレンが鳴るのを予感したくらいだった。
「お母さんには虫の知らせでもあるの?」
「どうして?」
「だって、サイレンが聞こえてくる前に耳を塞いでいるから」
 と言うと、
「え? だって、お母さんはサイレンの音が聞こえてきてから耳を塞いでいるのよ」
「じゃあ、お母さんと私とでは聞こえる時間が違うというの?」
「……」
 母親は考え込んでしまった。それ以上言うと悩ませてしまうことになるのでやめたが、実際にはどちらかの時間が狂っているのだろう。
 友達と一緒にいる時、確かに少しずれがあるのを感じたことがある。友達が工場の方を気にするのから少し遅れてサイレンの音が聞こえてくることもあった。だが、それはいつもということではない。
「音の聞こえ方って、人によって違うのかな?」
 サイレンの音を聞きながら、土手を歩いている時に友達に聞いてみた。
「違うかも知れないわね。光や音って、見えないものだし、人間の感覚で感じるものでしょう? 感じ方だって、人によって違うでしょうし、一概に言えないんじゃないかしら?」
 頷くしかなかった。
 だが、母親とはいつも違う。友達とはたまに違いを感じるだけなのに、どうしてだろう?
 そう考えると、母親の感覚が違っているのか、自分の感覚が違っているのか、ハッキリと分からない。
 音に関して少し不思議に思い始めたのは、結婚してからだった。
 旦那と一緒に暮らし始めたのが、初めての他人との生活である。
 いくら他人とはいえ、新婚時代から他人と意識しているわけではないが、やはりお互いの生活や世界を今まで育んできた中に違う人が入り込むのである。当然、何か違和感があっても仕方がないのではないだろうか。
 アパート暮らしも初めてだった。
 実家は一軒家で、庭もあるところだった。田舎でもないのに庭付きの家に住めるのは、祖父の時代からの土地があったからである。
「昔、この隣に教会が建っていてね」
 と母親が時々話してくれた。話しながら何か悲しげな表情になるのはなぜだったのだろう?
 ハッキリとした理由も分からないまま、隣はずっと空き地のままだった。その空き地で遊んでいる子供たちを見ながら、また母親は悲しい表情をしていた。
 母親は夕方になると、よく隣の空き地を覗いていた。子供たちの賑やかな声が聞こえなくなる時間になると、夕日が沈んでいく。
 夏の終わり頃によく夕立が降っていた。夕立が降る頃になると、母親にとって何か思い出すものでもあるのか、まだ晴れているうちから、身体が震え始めていた。
「大丈夫? お母さん」
「ええ、雨が降ってくるはずだから、洗濯物を入れ込んでね」
 と娘に指示をするが、母親は足が竦んでしまったようで動けない。
 表に出ると、なるほど湿気を感じる。夕立の前触れを感じさせるが、それにしても、よく母親は気付いたものだ。これも、サイレンの音と同じで、先に分かってしまう。何かの予知能力に違いない。
 夕立が降ってくると、見る見るうちに空が真っ黒になる。真っ黒になってから雨が降ってくるわけではなく、夕立とはそんなものだと思っていた。
「そんなことないわよ。夕立って、空が黒くなってから降ってくるものよ」
 と友達は言うが、またしても、母親と静香では違いこそあれ、他の人たちとも、どこかが完全にずれている。
 時間のずれを感じるというのか、待ち合わせの時間に対してもそうである。人と感じる時間が少しずつ遅くなって来ているのかも知れない。根拠があるわけではないが、そう思わずにはいられない。そんな時に思い出すが母親の面影だったのだ。
 最近になって、工場のイメージばかりが強かったこの街に、住宅街ができた。少し小高い丘になったところから向こうには住宅が広がっている。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次