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短編集52(過去作品)

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 何度か考えたことがあるが、それでも満足感は得られない気がしていた。満足感というよりも不安が募ってくるように感じたからである。
 不安に思うのは、人間に欲があるからである。
「もっともっと、上がある」
 それが人間の欲である。新しいものを見つければさらに他にもないかを考えてしまう。一番だと思っていることも、実は他にまだ一番があるかも知れない。欲があるから成長できるのだろうが、一つの欲に辿り着けば、それまで一心不乱であっただけに、まわりが見えていなかったことに気付くのだ。
 静香にとって結婚とは何だったんだろう?
 交際期間は三年、彼は普通のサラリーマンで、会社も一流とはいかないまでも、業界では少しは名の知れた企業であった。
 他の人から見れば、何の不満のない結婚に見えることだろう。静香にしても不満などない。ある程度理想の結婚だと思っている。
 彼はあまり欲を表に出すタイプの男性ではなかった。それだけに性格も温和で、静香の理想の男性にイメージも近かった。
 世の中で、夫婦間での暴力が問題になっているのを見ると、どうしても凶暴な男性は怖い。元々、凶暴でなくとも荒々しい男性には苦手意識を持っていたので、最初から相手にすることはなかった。
 人前に出るとあまり自分から話ができるタイプではなく、引っ込み思案な静香には、本当はグイグイ引っ張ってくれる男性がいい。だが、自分本位の男性であっては、元も子もない。
 男らしい男性が理想ではあるが、どんな男性が男らしいのか疑問である。
 余計なことを喋る男性には、どこか女々しさを感じるし、あまり喋らないと、今度はイライラしてくる。難しいところである。
 痒いところに手が届く男性がいい。お互いに意識しなくとも、相手が望んでいることを自然にしているような関係がいいのだろう。
 彼はまさしくそんな男性であった。結婚に踏み切ったのも、そこが一番だったからである。
 当然、彼も同じ気持ちだったに違いない。プロポーズのタイミングも静香が望んでいたタイミングであった。もっとも、これは結婚してから感じたことであったのだが、痕から気付く方が、インパクトも強いというものだ。
 だが、結婚してから三年も経つと、お互いに慣れきっているところもあるのだろう。あまり会話がなくなっていた。
――会話をしなくても、あの人は分かってくれる――
 という考えが自然だったことに今さらながらに感じる。
 どこか物足りなさを感じていたが、それが原因かも知れない。
 お互いに気持ちは分かっているつもりでいるので、喧嘩などしたことはない。喧嘩になることがないからだ。相手が考えていることが分かっているので、喧嘩になるようなことは言わないので、喧嘩になるはずもない。
 会話が減った理由は、お互いに分かり合っているからかも知れないと思っていたが、本当は喧嘩をしたくないという理由だったことに最近気付き始めている。
 明らかに結婚した頃と今とでは違う。
――今でも新婚気分は変わらないのに――
 と感じているが、いつの間にか、相手に対する甘えが大きくなっていることに気づいていた。
 依存症と言ってもいいかも知れない。それに気付くと、今まで自分が順風満帆であったこと、その裏に見えない不安を抱えていたことなどが分かってきた。不安を新婚という言葉でごまかしてきたと考えられなくもない。
 一度不安に思うと、後は膨れ上がるばかりだった。気になったほころびから、ついつい余計なことを考えてしまうのは今に始まったことではない。
 順風満帆であって、何が悪いというのだろう。
 ちょっとしたことを言われても気にならない時がある。順風満帆な時ほど、ちょっとしたことを言われると気になってしまうものだが、意識のない順風満帆であれば、まったく気にもならないものだ。
 人生にはそんな時期が何度か訪れるのかも知れない。本当に短い時期ではないかと感じている。そんな時期を一度経験すると、順風満帆な時期を意識できるようになる。同時に甘えがあることにも気付くだろう。
 数年前に一度味わった。
 順風満帆を感じたのは初めてではない。ちょっとした言葉で、何も感じない時期が今までにも何度かあった気がしたからだ。
 そんな時期は本当に短かった。その後に襲ってきた自分に対する甘えを直視する時期は、完全に自己嫌悪に陥っていた時期と重なっている。
 いろいろな思いがストレスになって襲ってきて、時系列を無視して、時々記憶の封印が解かれる。
 土手で工場を見ている青年を見ていて、昔の自分を思い起こさせたのも事実である。
 工場が実際に煙を吐いている時間は、今では結構限られている。時間にしても短い時間なのは、今の時代だからであろう。
 煙を吹き出していない時間でも、川の横から見る時は、吹き出しているように感じることもある。もっとも、吹き出していない時は、あまり工場の方を見ることもなくなってきた。過去の遺物のイメージもあるのかも知れない。
 夕焼けが次第に闇に飲み込まれていくと、明るいものは暗いものには敵わないのかも知れないと感じるようになった。しかし闇だって、光があるから生まれたもの、そこにパラドックスのようなものを感じる。
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
 これもパラドックスの一つであろう。進化というパラドックスである。起源が何であるかという究極の進化論に結びつく。
 静香は、難しいことを考え始めると、まわりが見えなくなることがあるが、それは一つのことからいろいろな発想に波及してくるからだ。その日も夕日が闇に飲み込まれる光景を見ながら歩いていると、気がつけば駅前まで歩いてきていて、街はすっかりネオンサインに包まれていた。
 夜の街を歩くのは久しぶりであった。
 普段は夕方までパートをしていて、日が暮れるまでに買い物を済ませて家に帰るので、夕焼けにしてもネオンサインにしても、見るのは久しかった。
 その日はパートの仕事が休みで、旦那は出張、久しぶりに食事の準備をしなくてもいいことから、久しぶりに友達が掛けてきた電話で、待ち合わせをすることになったのである。
「今日、私休みだから、どこかで会いましょうよ」
「そうね。私もたぶん、大丈夫だと思うわ。あまり遠くまではいけないけどね」
 商店街での待ち合わせとなった。
 約束の時間よりも早く来て待っていたのに、後から思えば待っている時間はそれほどでもなかったかのように思う。来れなくなったことを知らせる電話を受けても、何となく最初から分かっていたかのように、諦めはすぐについた。
 持て余していた時間だったはずなのに、一度は予定が入ったつもりだったことで、時間に対してポッカリと空いてしまった穴をどのように埋めるか、それが問題だった。
 歩いていて感じる気だるさの中、小さい頃を思い出すかのように見ていた川越しの工場の煤煙。川の土手には青年がいて、彼の表情を見ることができなかったのが、後になってみれば、それだけが悔いとして残っていた。
 工場のサイレンの音を思い出しながら歩いていた。
 夜の帳が下りてしまうと、足が鉛のように重たい。先ほどまでの気だるさがウソのようで、身体が極度の疲れを感じている。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次