短編集52(過去作品)
三十分くらい早く待ち合わせ場所に行っても、あまり早く来たという感覚はない。どちらかというと時間にルーズな友達がいて、約束の時間から三十分以上待ってもこないので、連絡を取ってみると、
「ごめん、急にいけなくなっちゃった。せっかくなんだけど、今日はキャンセル」
と言われ、がっかりして帰途に着いた。
その時の帰り道、普段通ることのない道を通ることで新鮮な気分になっていた。いつもは急いで歩いているので、まわりを見ることなどない静香なのに、その日は落ち着いていた。生暖かいはずなのに、風が吹けば心地よさが感じられたのだ。
――風の心地よさを感じるなんていつ以来かしら――
と思ったが、足が浮腫んでいて、決して歩くのが心地よいわけではない。ただ、適当な気だるさも、悪くないと思わせてくれた。
喉の渇きもあり、どこかで休憩していきたかった。梅雨が終わり、初夏の太陽を昼間はたっぷり浴びた歩道から、もやっとした空気が湧き上がってくる。オレンジ色の太陽を眩しく感じ、オレンジジュースが頭の中に浮かんで消えなかった。
工場の横にある川の向こう岸を歩きながら、土手に腰を下ろして座っている青年を見かけた。工場を見てから少年を見ると何と少年が小さく、そして今度は工場を見てから少年を見ると、何と工場が大きく見えたことか。だが、交互に見ているうちに、最初に感じたほど、二人の間の大きさが次第に狭まっていくのを感じた。錯覚には違いないが、同じ場所から見ていて、同じように感じたことがあるのを思い出していたが、どういう状況だったか、すぐに思い出すことができた。
あれは、まだ工場が全盛の頃で、煤煙が雲を突き抜けるのではないかと思えたほどだった頃だった。煙突の小さな穴から吹き上がる煙が、一気に空を埋め尽くすほどの大きさに変わることを不思議に思っていた。
――きっと遠くから見ているからだろう――
と思い込んでいたが、当たらずとも遠からじ、場所を少し変えるだけで見えている大きさが変わってくるのだった。
目の錯覚と言ってしまえばそれまでだが、富士山のように見る角度によって大きさが変わると言われる山もある。大きなものを見る時に、角度を変えるだけで違った雰囲気に見えてくるのは、ある意味当然のことである。
オレンジ色の世界は、まるでトンネルの中にいる時の世界で、ほとんどのものをモノトーンに浮かび上がせる。カラー映像で立体感を出すことができるが、カラー映像に慣れてしまうと、却ってモノクロがリアルに感じられる。
血を見るシーンであっても、あからさまに赤いと、却って現実味を帯びてこないもので、モノクロの方が真に迫った雰囲気を醸し出して感じるのは静香だけであろうか。
青年の姿が光って見える。黄昏時とでもいうのだろうか。夕方、夕焼けの後に、迫り来る夜の闇との間に夕凪という時間帯がある。夕凪の時間帯にはそれまでに靡いていた風がぴたりと止まり、さらにすべてのものがモノクロに見えるという。
魔物が出る時間帯として恐れられていると、おじいさんに聞いた。あたかも夕焼けが闇を誘っている時間帯であった。
工場のサイレンが鳴り響く。午後五時は当然だが、午後六時にも鳴らすようにもなっているらしい。まるで夕凪を待っていたかのように……。
土手に寝ている青年は身動き一つしない。身動きしていたら、光って見えたりすることもなく、彼の存在に気付くことなく通り過ぎていたに違いない。
――何が見えているのだろう――
分からなかったのは最初だけだった。
土手に座ったこともないはずなのに、彼を見ているだけで、まるで彼の視線で見えているような錯覚に陥った。低い位置から工場を見上げ、さらに足元からすぐの距離には川が流れている。川も工場の影響で、濁りに濁っている。とても川と言えるものではなく、ドブ川という表現がピッタリであろう。ドブ川というと、溝に近いような小さなものしか想像できなかったが、まさかこんな近くにあったなんて、今さらながらにビックリである。
もう一つ気になったのは、青年の視線は身体に対して真正面だ。土手の角度に逆らうことなく正面しか見ていない。それは工場からさらに上を見ていて、虚空を眺めているようにしか思えない。しいて言えば、吹き上がる煤煙を見つめているというべきだろうが、それも目で追っているわけではない。それなのに、彼の目線から工場の風景、そして川の光景が自分の視線であるかのように見えることだった。
見える角度によって、遠近感が違ってくるのは分かっていたが、心地よい気だるさの中で、自分の目線だけが違って見える状況に、落ち着きを感じるのは久しぶりだった。以前にも同じような感覚に陥ったことがあると記憶していた。その時はまだ小さかったと思うのだが、記憶はまるで昨日のことのように鮮明である。
――記憶とは実に曖昧なもの――
元々、無意識に封印している記憶もあるだろう。長い間生きているのだから、そのすべてを記憶として頭の中で整理するのは不可能だろう。いや、自分が考えているよりも、脳の機能は優れているのかも知れない。だが、それでも封印しているのも多いに違いない。記憶しておくことよりも、時系列に並べる方が難しいように思えてくる。
それは見えている距離にしても同じではないか。
記憶の中での工場と煤煙のイメージ、記憶の中では立体感ではありえないはずなのに、実際に彼の目線になると立体感を感じてしまう。それは記憶とのシンクロに原因があるのではないかと思えた。
記憶の中での時系列も、その瞬間から見れば距離のようなもの。遠近感が取れないのが記憶であり、記憶には夢のように色や匂いは漠然としてしか格納されていないのだ。
もっとも、今の静香はあまり記憶力がある方ではない。すぐに忘れてしまうのだが、最近では時系列に関係なく忘れてしまっている。
最初は昨日のことでも、いつのことだったか分からなくなってしまい、記憶の時系列が混乱したことから始まった。そのうちに、人から言われたことや、覚えていないといけないということが覚えられなくなってしまった。
「メモに書いておけばいいじゃない」
と言われて実行したが、今度はメモが多くなりすぎて、どこに書いたのか、さらには、見つけても、どういう意図で書いたのかが分からなくなってしまっている。
書いた時にはしっかりと覚えているのに、実際に痕から見ると覚えていない。健忘症などという言葉で片付けられる年齢ではない。まだ静香は二十歳代ではないか。
最近の静香は、順風満帆な生活を送っていた。今まで生きてきて、これほど順風満帆な生活は初めてである。順風満帆な生活になって、満足感を得たいと思っていた時期が懐かしく感じる。
順風満帆になったからといって、満足感が得られるとは限らない。順風満帆な生活といっても、自分で手に入れたものではない。二年前に結婚したのだが、旦那によって与えられた順風満帆の意識が強い。それでもどこかに甘えがあるのだろう。
甘えが自分の中で強くなってくる。自分で手に入れた順風満帆ではないことが分かっているからだ。
では、自分で手に入れた順風満帆ではどうだろう?
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次