短編集52(過去作品)
音と時間の狭間
音と時間の狭間
清武静香が小さい頃に住んでいた家の近くに工場があった。何を作っている工場なのか分からなかったが、やけにゴムの匂いがしていた。あまり気持ちのいい匂いではない。
そういえば、近くのゴミ捨て場には、たくさんのタイヤが捨てられていた。山のように積まれたタイヤを見て、
「一気に燃えたら、空が真っ黒に染まっちゃうだろうね」
と言っていた友達の言葉を思い出す。とにかくゴム関係の匂いの染み付いた街だった。
工場からは真っ黒な煤煙が吹き上がり、白い雲を見たことがないくらいだった。
――雲は黒いものだ――
という考えが子供たちの間で蔓延していたことだろう。
雲も近く感じる時と遠く感じる時とがあった。時間帯によっても見え方が違ったが、工場から絶えず噴出している黒い煙を意識している時は、手を伸ばせば届くほどの感覚であった。
工場の近くに川があり、川の水も当然濁っている。工場の近くに川原らしきものはなく、水草が茂ったように生えているだけであった。遊び場というと、公園があるにはあるが、狭い公園で、砂場も猫の額ほど、子供の目から見れば多少が大きく見えるものなのだが、小さく感じたのは、黒い雲を意識していたからかも知れない。静香は、公園で遊びことはほとんどなかったのはあまり活発な性格ではないからだ。かといって家で何かをするということもない。たまに両親の手伝いをしたり、本を読むくらいだっただろうか。
近くに大きなビルがあるというわけでもなく、完全に工場だけの恩恵に預かっている街で、公害になるといっても、なくなると困る。老人の中には公害が死活問題になっている人もいたが、どうしようもなかった。
静香は、そんな老人たちの中で、裏に住んでいるおじいさんが好きだった。よく遊びに行ってはお菓子などをもらっていたが、たまにしてくれる昔の話に耳を傾けるのが好きだったのだ。
おじいさんは、生まれてから他に移り住んだことのない人で、この街の生き字引のような人である。それこそ戦時中の空襲の話から、戦後の混乱期、そして高度成長時代に生まれた工場の話に及ぶまでに、数日掛かるくらいであった。
老人というのは、話し好きである。しかも話したことを忘れていることが多いので、同じ話を何度も聞かされることもある。だが、何度も聞かせてくれる話は不思議と前に聞いた時のことを忘れていることが多い。まるでこちらの気持ちを見透かされているかのようで面白かった。
戦争が終わってかなり経ち、静香と同じ高度成長期の育った子供たちでさえ、戦争なんて過去のものだという意識があった。学校で習うことも教科書では文字通り歴史の一ページにしか過ぎない。
話を聞いていてもピンと来ない子供もいるだろうが、静香には何か鬼気迫る雰囲気が漂っていた。それだけおじいさんの話がリアルさを与えるからだろう。
特に年上の人からの話は真剣に聞くようにしている。しかも自分の知らない世界を話してくれているのだから、疑えばキリがない。全面的に信じて頭でイメージすることによって自分に当てはめて考えるようになる。
教科書には載っていなくとも、他の本に載っている。特に学校の図書室などに行けば、戦時下の写真が掲載されている本もたくさんある。
静香は図書館に行っては、そんな本を読んだりしていた。およそ小学生の女の子が読むような本ではない。
残虐なシーンやオカルト映画が好きだというわけではない。だが、性格が正直なのだろう。
――昔がなくして今はない――
という考えである。いくら残虐な出来事であっても、目をそむけていてはいけないという気持ちを正直な気持ちだと思っている。もしそんな時代に生まれていれば、気が狂ったかも知れないと感じるが、案外、まわり皆が同じ状況であれば、染まってしまう自分がいろとも感じていた。
実際、敵は一万メートル上空に飛来し、爆弾を落として悠々と帰っていく爆撃機に乗っているだけなのに、真剣に竹槍訓練を繰り返していて、何の疑問も持たない人も多かったと聞く。憲兵などからの洗脳が大きいのだろうが、実際にまわりの影響で、真面目に竹槍訓練が役に立つと思わされていたのかも知れない。
「やはり国民感情を洗脳するのが一番の大きな目的じゃったかも知れんな」
とおじいさんは言っていた。
小さなアリの穴からでも大きな山は崩れることがある。ちょっとした心の隙間から戦時体制が覆らないとも限らない。徹底的に洗脳しなければ、クーデターだって起こってしまうだろう。甘い顔を見せられないことは歴史が答えを出している。温情を掛けて、最後は自分が後悔することになる例は、平清盛をはじめとして、歴史上には数え切れないほどの例があるに違いない。
夏休みも終わり頃、ちょうどお盆を境に戦争関係の映画がよくテレビであっていた。終戦記念日が八月十五日なので、それも当然のことなのだが、そのたびにおじいさんの話が思い出される。
テレビドラマでのシーンよりもおじいさんの話を聞いている時の方がリアリティを感じる。目を瞑るとシーンがよみがえってきそうなのだ。だが、考えてみればおじいさんの話で思い浮かべたイメージも元はテレビの映像が脳裏に焼きついているからである。焼きついた映像が話しによってさらに膨らんで、妄想となって現れるのかも知れない。
おじいさんが話してくれている時、時々目を瞑って上を向いている。まるで今にも涙が溢れてきそうな目は潤んでいて、瞳の奥が光っているように思えた。閉じているはずの目なのにおかしなものだ。
おじいさんは、ずっと爆撃の音に怯えていたことを話してくれた。子供心に、
――戦争は恐ろしいものだ――
と感じていたが、実際にピンと来るものではない。
その頃のおじいさんは、耳が遠くなっていた。耳に近づかないと聞こえなかったり、手を丸めて聞き耳を立てたりして必死で聞こうとしている姿が痛々しい。
そのわりに音に対して敏感であった。喋る声が聞こえないことが多かったようだが、特殊な音は耳に響くと言っていた。共通性はないように思えたが、
「どこから聞こえてくるのか分からないが、気になって仕方がないんじゃよ。子供の頃から静かな環境に慣れていなかったせいか。静かな場所に行けばやたらと耳鳴りが響いて、却って静寂が恐ろしいものに感じられたものだ」
と話してくれた。
「まだ戦前の静かな時代を過ごしていた時のことだったんだけど、遠くからわしの名前を呼ぶ友達がいて、近づいてみて聞いてみたら、名前を呼んだ覚えはないという。一体どうしたことかと思えば、違う時に、名前を呼んだのに気付かなかったと言われたこともあって、どうやら、遠くから声を掛けられると、空耳が聞こえたり、聞こえなかったりと不思議な感覚に陥るようだ」
遠くを見るような表情が印象的だったが、まさに時間の流れを象徴しているかのようだった。
大人になってからの静香は、誰かと待ち合わせをしていて、時間に微妙な狂いを生じていることを感じていた。
元々、人と約束をしていて遅れるのが嫌な静香は、約束の時間よりもかなり早く現れるようにしている。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次