短編集52(過去作品)
隣に座っても、青山を意識することはなかった。かといって、カウンター越しの女の子を見ているわけでもない。一人ゆっくり呑んでいる。
「あの、こんばんは」
一人ゆっくり呑んでいる女性に話しかけるなど、今までの自分から信じられなかった。彼女がもし誰かと一緒であれば、まず話しかけることはないが、一人で呑みに来て、寂しい雰囲気がある時だけ話しかけるだろう。
だが、彼女には寂しそうな雰囲気はない。ただ、一人で呑んでいるというだけだった。
もし、この光景を状況を知らない人が見れば、どう感じるだろう。きっとアベックだと思うに違いない。そして、会話のないアベックを不思議な感覚で見ているに違いない。
そう感じると、思わず声を掛けずにはおられなかった。何をどうしていいか分からない状況に陥った時は、自分を客観的に後ろから見ることにしている青山ならではのことであった。
「こんばんは」
かすれた声はさらに低く感じた。渇いた声を咳払いでごまかそうとしたのが、却っていじらしく感じる。コップを手にとってビールを喉に流し込んでいるが、喉を通るビールの音が響いているように聞こえたのは気のせいであろうか。
「私は、ここに時々来ているんですが、初めてお会いしますよね?」
彼女の方はアルコールの影響か、少し気さくに話しかけてきているように感じた。
「私は、この店初めてなんです」
「そうなんですか。初めてのお店だと緊張もありますよね」
青山が初めてだということを告げると、心なしか安心感が彼女に出てきたように思えた。
「ええ、そうですね。でも、すぐに馴染めるような気がしてくるのが私のいいところだと思っています」
本当は、初めて来た店では緊張はある。それを言いたくないのは、やはり男としての意地のようなものであるし、さらにこの日は話しかけてくれる人がいたことで、ほとんど緊張はなかった。
そのことを彼女は認識しているだろうか。きっとしていないに違いない。
会話は思ったよりも気さくに進み、ちょうど店にメロンがあったのもよかったのではないか。メロンは甘い香りと香りよりもさらに濃厚な味を舌に残す。
それでいて後口が悪いものではない。何か物足りなさを残すが、それも腹八分目の気分で、少々残っている方がメロンらしいと思っている。
その時の会話がどのようなものであったか、ハッキリとは覚えていないが、話をしながら、
――彼女とは初めてではないような気がする――
と感じた。何度も、同じ話をかつてしたことがあるという妄想に駆られたのは、仕草に思い出があったからに違いない。
細かい仕草の中で、時折見せる正面を向いて何かに語りかけようとするかのように動く唇。時々、自分以外の誰かを意識しているのではないかと感じさせる。
夢の中で似たような女性を意識したことがあった。
あれはいつだっただろう?
そういえば、やたら時計を意識している夢だった。デジタル時計ではなく、アナログの時計。しかも柱時計である。
今時柱時計のある家など存在するはずはない。違和感も感じなかったということは、アンティークな家だったに違いない。小さい頃に友達の家で見た柱時計が印象的だった。
確か夏だったように思う。
湿気を帯びた部屋だった。表は容赦なく太陽が降り注いでいて、表から入ってくると、まずヒンヤリとしているのを感じた。
子供はどうしてあれほど汗を掻いても、ずっと遊んでいられるのだろう?
そう感じたのは、夢を見ていることを自覚していたからかも知れない。自分が子供ではなく、大人になってから見ている夢だと分かっていたからだ。
部屋に入ると、汗が一気に引いてくる。部屋の湿気が身体の汗を吸い込んでくれているように思えるからで、吸い込んだ汗が風を感じさせる。
――日本家屋には冷房がなくても涼しいというが、こういうことなんだな――
子供の頃に感じたのを思い出した。
それにしても、あれだけ湿気があるのに、かびることなくよくもっているものだと思っていた。確かに柱や梁を作っている木材は他のものと違って太くて丈夫だ。しかもカビ防止もされているので、少し表面が光って見える。それも日本家屋の特徴である。
そんな時、表で遊び疲れて息も荒い状態で入ってきて、シーンとした空気が漂っていた。キーンという音が耳鳴りのように響いて、その音にどこかトンネルから出てきた時のように鼓膜を感じることができるかのようだった。
中には三人がいた。
友達と、友達のお母さんだったが、ゆっくりしているその時に、いきなり湿気を帯びた空気を切り裂くような甲高い音が聞こえた。
――甲高い音――
そう感じたのは勘違いのようだった。音は柱時計からの時を知らせる音で、甲高いというよりもむしろ響くような低い音だったはずだ。それを甲高いと感じたのは、それだけ部屋に湿気が充満していたからに違いない。
響いた音はしばらく空腹に響いていた。ちょうど、友達のお母さんが、食事を作ってくれているところなので、それを待っているところだった。
唇が乾いて、塩味でも含んだかのようで、きっと声を出そうとしても喉がカラカラで声を出せない状態だったに違いない。
どれくらい時間が経ったのか、その時の気持ちとしては、五分くらいのものだと思っていたのに、また柱時計が渇いた音を発した。
「え? もう一時間経ったの?」
「ああ、そうだよ。早く感じただろう?」
友達は頷きながら話していた。
「うん、だけど、早く感じたのが分かったのかい?」
「僕がそうだったからさ。最初に柱時計に意識を持っていけば、意識が外れてから次に意識するまでの時間ってあっという間なんだ。それはずっと変わらないよ」
と言われて、ハッとした。そしてさらに柱時計を見つめていると、そのイメージが忘れられなくなってしまったようだ。
スナックで知り合った女性、彼女とその日、軽い会話しかしていないが、意気投合しているのは分かっていて、馴れ馴れしすぎず、どちらかというと他人行儀くらいの会話の方が却って、お互いを意識するものだということを感じていたに違いない。
彼女が寄り添ってくる。気がつけばホテルの一室にいて、湿気を帯びた空気の中に佇んでいた。
部屋の中を明るくする。清潔感に溢れているにも関わらず湿気を感じるのは、淫靡な雰囲気の部屋であることが分かっているからだ。まわりを見渡すと、柱時計があった。さっき夢を思い出したのは正夢だったのかと思わせるくらいだった。
夢を見たのを思い出したということからしてウソのようだ。部屋で見た柱時計で、夢を思い出したと錯覚したのかも知れない。柱時計は掛かっているのではなく下に置いてある。架けていないということは、ただのオブジェでしかないのだ。
柱時計を少し意識しながら、彼女を抱いた。身体の火照りを感じていると、自分も身体の奥から熱くなってくるのを感じる。熱くなったものを最後には相手の身体の中に出し切るというのを儀式のように行っている光景を、客観的に感じることができれば、さらなる快感を得ることができるだろうと考えている。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次