短編集52(過去作品)
何よりも一緒に行く人がいなかったのが一番の原因である。
居酒屋にしても、スナックにしても。一人で立ち寄るには勇気がいる。特にあまり呑めない人間には、最初から敬遠しているところがあるだろう。
だが、本来は初めての店に入るのは一人でのことが多かった。時々寄る喫茶店にしても初めは一人で立ち寄ったのだった。
二回目からは、何ら違和感はなくなる。むしろ一人で立ち寄ったことで、すぐに常連になったような気がした。喫茶店のマスターが気さくだったことも幸運だった。いつもどちらからともなく話しかけて、二回目からすっかり馴染みになってしまっていた。
「青山さんは最初から常連さんのような感覚でしたよ」
「そうですか? ありがとうございます」
褒められているのかどうなのか、真意は分からないが、青山は褒められたと思って疑わない。気さくなマスターは、素直にありがとうという言葉を受け取ってくれるに違いないと感じたのは、やはり、自分から常連だと思っていたからであろう。
スナックにしてもそうだった。
足が勝手に向いたというべきか、最初から、
――今日は、スナックに寄ってみるぞ――
と考えていたわけではない。
偶然駅前を通りかかった時、ネオンサインが目に付いただけだった。時間的にも余裕があったし、ネオンを見た時、すでに常連になれそうな予感があったのかも知れない。
最初に入るのは喫茶店よりも抵抗があるかも知れない。だが、一度入ってしまうと、喫茶店よりもスナックの方が常連になる可能性は遥かに高いと思えてきたのだ。
それまでにスナックと呼ばれるところは、先輩に連れていかれたことがあるくらいで、あまり記憶がない。だが、先輩の行きつけの店だったようで、気さくな話し方が羨ましかったのも事実だ。
――いずれ自分の馴染みの店がほしい――
と思ったものだった。
まだ日は完全に落ちきっているわけではなかった。薄暗い中で映えるネオンサイン、芸術家としての血が騒いだといっても過言ではないだろう。
吸い寄せられるように歩いていったように思う。扉を開ける時が一番緊張していた。
――こんなに重たい扉があるんだな――
と感じたほどであったが、それは最初だけで、次からは、
――こんなに軽い扉だったんだ――
と再認識していた。
「いらっしゃいませ」
――薄暗い――
スナックとはこんなにも薄暗いものだったのかと思ったほどで、目が慣れるまでに少し時間が掛かりそうだった。
おしぼりを両手で差し出すように待っている女の子の姿が見えた。
「こんばんは」
思わず返事をしてしまったが、それにしても自分が入ってくる予感でもあったのだろうか。そうでもなければ、さっとおしぼりを差し出すなど考えられない。
彼女の前のカウンター席に座り、おしぼりを受け取る。
席に座って、初めて店内を見渡すが、
「お客さん、初めてですよね?」
と言われて、少し照れくさかった。
――初めての客にどのような態度を示してくれるのだろう――
中には初めての客なので、どのように接していいのか分からない女の子もいるかも知れない。
――だけど、そこは商売なので、何とかするだろう――
という思いも頭を擡げた。
確かに気さくな雰囲気は、緊張感を和らげてくれる。
――この娘に限っては大丈夫だろう――
と思えてならなかった。
店を見渡すころには目が慣れてきていた。入ってきた時よりも何となく店内が広く感じる。その理由はすぐに分かった。
立っている時と座っている時では視線の高さが違う。天井が遠い座っている時の方が、広く感じるのは当たり前のことである。
「何になさいます?」
メニューが目の前に置いてあるが、とりあえず、
「ビール」
と答えた。
その日は少し蒸し暑く、喉の渇きを感じていたので、ビールが呑みたい心境であった。
ビールの口がコップに当たる乾いた音、コップに注ぎ込まれる時のドクドクという音を聞いていると、さらなる喉を潤したい気持ちが溢れてくるのだった。
目の前に差し出されたコップを一気に口に持っていって、コップ半分くらい飲み干した。「お客さん、いける口なんですか?」
「いや、普段はほとんど呑まないんだ。今日は蒸し暑いからね。ビールがうまい日なのかも知れないね」
しかし、ビールがおいしいのは、最初の一口だけである。後は次第に苦味が増してきて、一気にペースが落ちてくる。
つまみにはミックスナッツを用意してくれた。一つ一つを大の大人が指で拾って食べている光景は滑稽かも知れない。自分で想像するだけでも恥ずかしかった。
カウンターの奥で、フルーツを切ってくれている。
「今日はメロンがあるんですよ。お客さん、ラッキーですよ」
と言いながら微笑んでいる。
それにしても、店内は閑散としている。客がいる雰囲気が想像できないのだ。あまりにもまわりを見る青山に気付いたのか、
「まだ早い時間ですからね。九時過ぎくらいにならないと、お客さん増えてこないですね」
といって微笑んでいる。
時計を見れば午後七時を回ったところ、開店してから、それほど時間も経っていないに違いない。
そういえば、彼女はせわしなく動き回っている。まだ客が来る時間ではないとたかをくくっていて、ゆっくりと開店準備をしていたのかも知れない。
――開店休業――
という言葉を聞いたことがあるが、意味は違っているかも知れないが、まさにその言葉を思い出した。
薄暗さにも目が慣れてくると、お互いに饒舌になってくる。少なくとも青山はすでにこの店の常連になったかのような気持ちになっていた。
こんな気持ちになることは、それまでにはなかった。さすがにスナックというところは自分が考えているよりも妖艶な雰囲気なのに違いない。最初こそ違和感があったが、慣れてみると、想像以上に以前から知っていたように思えるから不思議だった。
話の内容が他愛もないことでも、飾った雰囲気を感じない。相手が完全に客と話すことも仕事のうちだと思っているからであろうが、相槌の打ち方でも、いやらしさがまったくなかった。
しばらくすると扉が開き、そこから一人の女性が現れた。彼女が中に入ってからも入り口の方を凝視していたが、それは彼女に連れがいるのではないかと思ったからだ。スナックに女性が一人でくるなど想像もできなかったので、ずっと入り口を見ていたが、一向に連れが入ってくる気配はない。彼女は一人のようだ。
カウンターの女の子がおしぼりを一つ、手に持って待っている。
「いらっしゃい」
そう言って無言の彼女におしぼりを渡したが、彼女は表情を変えることなく受け取ると、青山の隣に腰を下ろした。
他に席はたくさん空いているのに、わざわざ隣に座るというのも、まるで自分に興味があるのかと緊張してしまう青山だったが、それにしてはあまりにも無表情なので、却ってどう対処していいか困ってしまう。
「おビールを」
少しかすれた声がセクシーだ。ロングヘアーで黒いワンピースの出で立ちを見ると、どこか夜の仕事の雰囲気を醸し出しているように思えるが、頭に「お」をつける上品さは、また違った雰囲気を感じさせる。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次