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短編集52(過去作品)

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 横綱が成績を落とせば大関に落ちることはない。残っている道は、引退だけなのだ。厳しい世界であるということと、男の花道のようなものを同時に感じるが、相撲界もある意味個人事業。満足して引退できるのであれば、それがいいに決まっている。
 挫折だけが境には残ったのだろう。
「もうあの頃のことはあまり思い出したくないな。戻ってきてからすぐくらいは、毎日のように同じ夢を見たものさ。内容までは覚えていないが、東京を去る決心をした時の心境を思い出そうとすると、その時だけ夢の内容をリアルに思い出せたりするんだ」
 同じ夢を何度も見るというのは尋常ではない。それだけ挫折も大きかったのだろうが、夢を見ることで、ひょっとして早く忘れられるのかも知れないとも感じていた。
 境との話はそれなりに楽しかった。東京の話をなるべくはしないようにしていたつもりでも、言葉の端々で、東京への思いが残っているかのように聞こえる。境には悪いと思って、あえて指摘はしなかったが、そんな時はかなり話にエキサイトになっている。
 元々境は話し始めるとエキサイトしてくる方だった。喉がカラカラに渇いてくるのか、ビールを一気に飲んでおかわりするので、気がつけばかなりの量を呑んでいる。
 話し終わった頃には、真っ赤な顔になっていて、ろれつも回らなくなっている。今は画家の道を断念し、普通のサラリーマンをしているので、翌日の仕事が大丈夫なのか心配だ。
 タクシーを呼んでもらって、乗せるのだが、その時にはかなり酔いが回ってきているようで、うわごとのように何かを呟いている。
「お前はいいよな。画家だもんな」
 と言っている。
「しっかりしろよ。ちゃんと運転手に帰り道を説明するんだぞ」
 とあえて、話をはぐらかしている。
 呑んでいる時は、画家への未練はないような話をしていた。実際に話を聞いている時は、
――きっぱり諦められたんだな――
 もし、自分が同じ立場だったらどうだろうと考えてみたが、どうしても最初から東京に出て行くことを想像もできないことから、同じ立場になることはないと確信している。
 諦められるはずがないのも画家の宿命ではないだろうか。
 境の様子を見ていて青山は、真剣な表情になっていた。こわばった顔になっていて、他の人が見れば怒っているように見えるかも知れない。
――画家を諦めるなんて、やっぱりできないんだ――
 曲がりなりにも画家の職業に足を突っ込んでいる青山は、今は、
――やめたい――
 などという発想は生まれてこない。幸か不幸か、境のように諦めてしまった人の未練がましい姿を見たこともなかったので、考えることもなかった。しかし、目の前で見てしまったことで、考えたこともない発想が頭を擡げてくるのである。
 未練がましくはあるが、決して醜いものではない。未練という心の奥にあるのは、人間らしさであろう。それを分かっているから、余計に苦しく感じるのである。自分が同じ心境に陥ったら、どのようになるか。考えは袋小路に入ってしまう。
 考え始めると、到達する答えが見えているわけではないので、あてのない発想が狭い範囲で繰り返される。どこをどう回っているか分からないので、広く大きな世界を一直線に進んでいるようにしか感じないだろう。
 気がつけば同じところに発想が戻っていて、
――あれ、おかしいな――
 と思い知らされる。冷静に考えれば、狭い範囲であることは一目瞭然なのだろうが、考え始めた時点で、すでに冷静ではなくなってるに違いない。
 ものを考え始めると、次第に考えや意見が狭まっていくようだ。果てしない中から道を見つけていくということは、それだけ世界を狭めていくことになるのだ。最終的に狭まった中に答えがあればいいのだが、答えがその中になければ、同じところをグルグルとあてもなく彷徨い歩くしかなくなってしまう。それが青山の芸術家としての考えで、青山自身の考え方でもあった。
 画家を諦めようと考えたことは青山といえども、今までに何回もあった。
 自分の実力に限界を感じさせられたこともあったし、世間の人との考えの違いに悩んだこともあった。
 美術商で置いてもらうこともあるが、依頼を受けて作品を描くこともあった。
 依頼主は好き勝手なことをいう。それがどんなに気に食わないことであっても、依頼主に逆らうことはできない。信用に関わることだからだ。もっともっと有名な画家にでもなれば、断ることもできるだろう。
「さすが芸術家だ」
 と堅物や頑固であることを、芸術家ということで許されたりする。だが、中途半端な立場ではわがままでは許されず、死活問題になってしまうことになるだろう。
 自分を殺してでも、依頼主の言うことを聞かなければならないのが、この商売の一番と言ってもいいほどの苦しいところだった。
――僕は芸術家なんだ――
 と言い聞かせながら、ジレンマと戦っている。
 画家として何とかなり始めた頃、少し自分に自信が出てきた。本当の自信ではないかも知れないが、自分に自信を持つことなどなかった青山にとって、新鮮な気分だった。
「芸術家たるもの、自信を持つことが大切だ」
 と学生時代に先生が話していたが、やっとその意味が分かってきた。
 ウソでもいいから自信を持てるようになると、本当の自信に近づこうとする。今までは自信を持っても、それはウソの自信なのではないかと、信じて疑わなかったが、ある意味それは正解だった。しかし、それが本当の自信をつけるためのステップであることに気付かなかっただけで、仕方がないことである。今、近づこうとしている自信を、青山は本当の自信なのだと思っていた。
――芸術家にとって孤独はある意味仕方がないもの。寂しくても、その気持ちを芸術にぶつければいい――
 と考えていたが、それも少し違っていた。
 自信を持てるようになってくると、孤独すらも自分の中で味わえるようになるものだ。他の人への依頼心が少なからず消えていく。最初から分かっていたことだったように思えるのは、それまでの人生とは違う道を歩み始めたからかも知れない。
 人生を一本の直線のように考えて生きてきた。後ろを振り返れば、自分の歩んできた道が見えるように思えたからだ。しかし、自信が持てるようになって、同じ直線でも、少し角度が変わった。過去を振り返った時に見える直線は、これまで歩んできた直線と違ってしかるべきである。だから、最初から分かっていたように感じるのだろう。
 とりとめのないことではあるが、不思議な感覚すら理屈で考えられるようになったということは、それだけ理屈が分かってきたということだろう。
 理屈で考えられるようになってきたことで、それだけ自分に余裕が生まれてきていた。それは肉体的な余裕ではなく、精神的な余裕である。精神的に余裕ができると、仕事も捗り、同じ内容のことをこなすのでも、肉体的にも十分余裕が生まれてきたのは間違いない。
 それまで立ち寄ったこともないところに寄るようになった。その頃にはアルバイトをしながらではあるが、少し金銭的にも余裕が出てきていた。
 駅前の雑居ビルの裏手に、飲み屋街があった。居酒屋やスナック、あまり呑めない青山であったので、立ち寄ることはなかった。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次