短編集52(過去作品)
と思っただけで気持ち悪くなってくる。吐き気を催してきたが、耐えなければならない。男に自由にされる苦しみと、人に知られることの恥ずかしさの狭間で、美紀は苦しさと気持ち悪さに耐えていた。
男の手がスカートをたくし上げてくる。完全に抵抗できない女性だと男に思われてしまったに違いない。
――しまった――
何をされるか分からないという恐怖から身を硬くして絶えていたのが却って逆効果を呼んだのだ。だが、あの場合、耐えるしかなかったのも事実で、どうするのが一番の得策だったかなど、分かるはずもなかった。
「痴漢は犯罪です。勇気を持って抵抗してください」
と電車のポスターに貼ってあるが、それができるくらいならとっくにやっている。何よりも男がどのような人物か分からないこともあり、抵抗するのは危険を煽るようなものである。
その時、美紀の頭の中は意外と冷静だった。痴漢に遭った友達がいて、その友達のことで皆で話をした時のことが頭に浮かんだのだ。
事を荒立てて、恥ずかしい思いをするのは自分だということもその時の話に出てきたことだ。たとえ相手を警察に突き出したとしても、相手が開き直ったりして、万が一犯罪にならなかったり、こちらの思い込みだったりすると、逆恨みを受けないとも限らない。下手をすれば無実の人の家庭を壊すことにもなりかねない。何しろ満員電車の中、無数の手がある中から誰の手かなどというのは、よほど自信がなければ言えるものではないだろう。自分の立場になれば怖くて相手を指摘することなどできないとその時は考えていたはずだ。
美紀には羞恥心が人一倍あると自分で思っていた。恥ずかしいことは自分にとってはいけないことだという道徳が確立されていたといってもいい。ただ、今までは人から受ける辱めを感じるよりも、自分が人に対して恥ずかしくない行動を取らなければいけないということが頭の中にあった。それだけに人から受ける辱めに対してどう対処してよいか分からず、戸惑っている。
男の手がいやらしく太ももを撫でている。震えているのが分かっているはずで、男にとって自分の手で震えている女性を好きにできる快感というのがどういうものか、美紀に想像できるはずもなかった。
早くこの時間が過ぎてほしいと思いながら、モゾモゾとしていたが、不安定な電車の中で自分の立ち位置を確定することは難しい。執拗に伸びてくる手から逃れることもできず、無駄としか思えない抵抗をモゾモゾすることで続けるしかない虚しさを味わうしかなかった。
自分の無力さと抵抗できないことへのもどかしさで自己嫌悪に陥りそうだった。
――抵抗しないと自分が情けないだけだよ――
という強気な自分と、
――抵抗しても恥ずかしい思いをするのは自分だよ。下手に抵抗して後で逆恨みを受けるようなことになったら大変――
という消極的だが、冷静な自分が同居している。
どちらかというと、後者の方が強いだろう。恐怖に震えていると、どこか冷静な自分が顔を出す。
――冷静にならなければ――
という思いもあるのだが、客観的に自分を見つめていないと、もはや自分でなくなってしまうからで、自分でなくなってしまうことだけは、何とか避けたいといつ何時でも考えている。
冷静な自分が最後の砦であった。スカートをたくし上げた手の平が太ももと上がってくる。その行為を頭の中で思い描くと、何とも淫靡なものであろうか。想像しただけで恥ずかしくなってしまい、想像している自分が一番恥ずかしい。
男の手は優しい。これほど優しく触られたことは今までにはなかった。男性経験はある美紀だったが、今までの男性はがさつだったのだろう。普通だと思っていたが、それが間違いであったことを、後ろの男が教えてくれている。
強引が嫌いなわけではないが、優しさの中に少しじれったさを感じると、女性はたまらなくなるのだという。週刊誌で読んだ内容だったが、半信半疑で思わず読み耽ってしまっていた。
信じられないというのが第一印象だった。だが、今は何となく信じられるような気がする。がさつな男たちばかりに「焦らし」などという観念は存在せず、下手をすれば自分の欲望にだけ走っているようにさえ思えてしまう。
しかし、羞恥心と理性が美紀を我に返らせる。我に返るとすぐに指の感触を感じて、違う世界を思い浮かべている。そんな繰り返しだった。
女が抵抗しないと男は大胆だった。指がついに足の付け根まで来た時に、一度ピクンと身体が反応したが、嫌な気持ちの反応ではないことを男は察したようだ。攻撃をやめようとしない。
美紀の身体から力が抜け、思わず後ろの男に寄りかかってしまった。本当であれば嫌なことをされている相手に身を任せることは屈辱感以外の何者でもない。それなのに嫌な男に身を任せる理由は二つあった。
一つは、他の人にこの状況を知られたくないという羞恥の思いである。どうしても恥ずかしい。下手に他の人にもたれかかってしまうと、その人にこの状況を知られてしまうのは間違いのないことに思えてならなかった。それだけ神経も過敏になっていたはずであった。
もう一つは、辱めを受けている相手にもたれかかることで、少しでも自分の中の快感を高めたいという「オンナ」の部分が顔を出している。恐怖と快感のジレンマに、自分の理性はどこかに行ってしまったのかも知れない。元々理性というのは、辱めだという意識を自分で勝手に作っていただけではないかとさえ思えた。
――身体は正直――
少なくともその時の美紀が感じたことだった。
規則的な生活をすることが気持ちに余裕を持たせると思っていたが、自分に正直なことも大切なのだと考えるようになってきたが、男に辱めを受けた電車の中からその気持ちが生まれてきたように思える。気持ちの余裕というのが普段気がつかなかったことであったり、自分の中で無意識に封印してきた、開けてはならないと思っていた「パントラの箱」を開けてしまうことに繋がっているのかも知れない。
朝、そんな気分になってしまっては、その日はまともに仕事もできなかった。
その日の帰りに、普段から気になっていた喫茶店に寄ってみた。目的は気分転換である。
お酒を呑めるのであれば、居酒屋にでも行くのだろうが、あいにくアルコールがあまり呑めるわけではなく、むしろアルコールで忘れようとしても。もし忘れられなければきつい思いが残るだけである。そんなことはしたくない。
気になっていた喫茶店に今まで寄らなかったのは、女一人で入ることに抵抗を感じていたからだ。喫茶店というと学生時代に友達と入るか、誰かと待ち合わせをするかのどちらかしかないと思っていた。だが、美紀が喫茶店に立ち寄らなかった理由は他にもある。
美紀は今までに三人の男性と付き合ったが、最後に付き合った男性からだけ、別れを告げられた。それまでは自然消滅のような形が多かったが、最後に付き合った男性からだけは、ハッキリと告げられたのだ。知り合ったのは、まだ学生の頃だった。
付き合った三人の男性の中で一番好きだったのは、その彼だった。名前を雄作というが、彼に対しては、
――結婚まで考えられる男性――
というイメージを抱いていた。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次