短編集52(過去作品)
実際に結婚を意識したことも何度かあった。雄作も同じだったのではないだろうか。特に中途半端なことの嫌いな雄作は、いつも態度をハッキリとさせていた。そんなところが美紀の気持ちを打ったのである。
雄作とはいつも同じ喫茶店で待ち合わせていた。いつも彼が先にいて美紀を待っているのだ。美紀が彼を先に見つけて手を振るのだが、ひょっとして彼も美紀が来たことは最初から分かっているのかも知れない。いつも窓際の同じ席に座っているのである。分からない方がおかしいだろう。
雄作という男性は、実に分かりやすいタイプの男性だった。感情がすぐに顔に出る人で、楽しい時と落ち込んでいる時のでは明らかに違っている。しかも精神的に躁鬱が周期的にやってくるようで、そういう意味でもハッキリとしていた。
少し鬱状態の時が長いので、それが辛かったが、それ以外は美紀にとって非のうちどころのない男性だった。優しく、相手をしっかり見る力があったからだ。
男性と一緒にいて疲れないという思いを抱かせてくれたのも雄作が最初だった。それまでに付き合った男性はそれぞれに魅力はあるのだが、美紀を時々不安にさせた。何を考えているか分からないところがあったからだ。
最初に付き合った男性は、ただ優しいだけ、自分の意見を持っていなかった。何をするにも美紀に相談して、美紀が決めていた。最初はそれが優しさだと思っていたのだが、いつまでもそれでは辛くなってくる。相手ともぎこちなくなり、待ち合わせる機会が少なくなったことで自然消滅だった。
二人目の男性は、自分の意見を持っていた。だが、あくまでも自分の考え方が優先で、他の追随を許さないところがあった。
頑固というのとは少し違う。わがままなところもあった。他の人に見せない弱みを美紀にだけ見せていたので、美紀にはそれが嬉しかった。どこか母性本能をくすぐるところもあり、自分が女性であることを初めて自覚させてくれたのが彼だった。
初めて男性に抱かれたのも彼だった。想像していたより優しく抱いてくれたので、抱かれたことによりさらに彼を好きになっていった。
だが、彼は女性を抱くとそこから少し変わる人だった。優しく抱いてくれて彼に近づいたと思っていたのに、それからしばらく彼から連絡がなかったのだ。
「仕事が忙しくてね」
確かに仕事が忙しいのは事実のようだったが、美紀としては、身体を委ねたことで、心までもが彼を欲していることに気付き、いつ何時も彼のことが頭から離れないでいた。
しかし、彼は、
――釣った魚に餌を与えない――
という表現が適切かどうか分からないが、そういうタイプの男性だった。
彼から連絡があまりなくなってくると、次第に美紀も冷めてきた。
――私って熱しやすくて冷めやすいのかしら――
という風に考えてしまう。
自然消滅が二回も続けば、さすがに男性との付き合いには向かないのではないかと考えるようになった。
しかし、雄作に出会ったのは偶然ではなく、まるで最初から分かっていたかのような感覚が最初からあった。どこでそんな感覚になったのか覚えていないが、ピンと来るものがあったのは事実だった。
雄作とはあまりいろいろなところに行くことはなかった。喫茶店でお話をして、彼の車でドライブして、そのままホテルに入ることはあったが、夜景を見て帰るだけのこともあった。
なぜ彼を一番好きになったのか分からないが、美紀を抱いてから後の方が、美紀を愛してくれるようになったからかも知れない。いけないとは思いながら、以前に付き合っていた男性とを比べてしまうのは、仕方のないことだろう。
雄作には無邪気なところと、大人の部分が同居していた。といっても、一緒に顔を出すわけではなく、無邪気な雰囲気の中で、ふとした時に大人の部分を感じたり、大人の雰囲気の中で、ふとした時に無邪気さを感じたりする。そこが魅力だった。
喫茶店での雄作の顔、それが一番無邪気だった。
付き合っている時に別れが来るなんて想像もしていなかったが、彼が転勤すると言った時、
「ついてきてほしい」
という彼のことばに素直に答えられなかった。
本当はついていってもいいと思っていたはずなのに、一瞬そこで間があったのだ。一言何かを言わなければいけないと思い、
「ごめんなさい。少し考えさせて」
と言って、しばらく沈黙があった。すると、彼は満を持したように、
「いいんだ。もうこれでお別れにしよう」
と言った。
「いや、どうして結論を急ぐの?」
彼に縋りつきたい思いをぐっと抑えるのに必死で、出てきた言葉がそれだった。
「君は考えれば考えるほど結論が纏まらず、袋小路に入ってしまう方だからね。君に考えさせるということは、君を苦しめることになる。それなら、ここで一旦リセットした方がいいんだ」
美紀はその言葉に凍り付いてしまった。
とても優しい言葉である。しかも一言一言を分かるようにゆっくりと話していた。それが却って美紀には重たく感じられた。
息遣いを感じる。それは彼の息遣いでもあり、自分の息遣いでもある。その息遣いが一緒になって聞こえてくる。ハウリングが掛かったように、響き渡って聞こえるが、それはもちろん、二人の間でしか分からないものだ。
――初めて彼に抱かれた時と同じ――
それを思い出すと切なくなってくる。まだ身体に彼の暖かさが残っているように思う。いや、実際に残っていたのかも知れない。
――私は彼を愛しているんだ――
と初めて感じた。だが、愛しているからこそ、
「分かりました。一緒についていきます」
とは言えなかったのだ。
それが自分の本心ではないことが分かっているからで、愛しているからといって、すべてを委ねたいからといって、自分の中にあるすべてのものを差し出すわけではないことを知っていたからだ。
愛している相手にすべてを委ねるというのは語弊がある。少なからず、どんな相手にも開かせてはいけないものが自分の中にあって、それを大切にしなから相手に委ねる。そこが分からないと自分を見失ってしまうことが起こると、自分が自分でなくなってしまった時に抑えが利かなくなるからだ。
そこで自分が彼についていくことになってしまうと、大袈裟ではあるが、自分で自分を見失ってしまうと思ったからだ。彼を失うのは辛いが、彼もきっと同じことを考えていたはずである。一番心と心が通じ合ったのが別れの時だというのも皮肉なものだ。
得てしてそんなものかも知れない。
それにしてもよく瞬時にそれだけのことを考えられたものである。
悩んだりした時に結論が出ないのは、一つのことを考えては、否定して、さらにまた考えては否定する。同じところをグルグル回ってしまって、袋小路に入り込んでしまうことで、結論が生まれないのだ。
考えてみれば、一番素晴らしい考え方というのは、最初に直感で感じたことなのかも知れない。
喫茶店でいつも座るのは窓際。入り口からすぐに窓際に目を移すと、そこに雄作がいるのではないかと一瞬でも感じた自分が恥ずかしくなる。窓際の席はいつも明るく、雄作がいる時がなぜか暗かったような気がする。必ず彼がいるという安心感があったからではないだろうか。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次