短編集52(過去作品)
さすがに新聞を読んでいるような人はいないが、肘を立てていたり、傘を持っている人もいたりと、中途半端なスペースがあるだけに、突起物には気になるものだ。腰の辺りに突起物を感じると、反射的に腰を引いてしまい、また近くの人に当たってしまうという悪循環を繰り返す。それが嫌だった。
隙間がなければ電車の揺れに任せて体重ごと、身を任せればいいのだが、さすがにこの状態ではどうしようもない。
その日は入社式を終えて、研修も後半に入っている時期で、だいぶ会社の雰囲気にも慣れてきたのではないかと思っていた。世間一般にいう五月病もそれほど辛いこともなく、いよいよ梅雨から夏を迎える時期になっていたのだ。
電車の中はクーラーが入っているが、効くものではない。次第に手に汗を掻いてきて、呼吸が整わなくなってくる。
そんな時に限って周りが気になるもので、少しでも誰かに触れるのが嫌だった。硬いものが嫌でもあるが、汗を掻いている状態で、人肌のような中途半端に暖かく柔らかいものほど気持ち悪いものはない。
少しよじった腰に違和感を感じた。誰かの腕が当たっているのを感じたからである。
もう一度よじってみた。すると、さっきの手が追いかけてくる。腰を巻くように纏わりついてくる手だったので、同じ人の手であることは明白だった。
――狙われている――
腰を抱くように両腕が美紀のまわりにあるようだ。美紀が耐えていると、相手も何もしてこない。
そのうちに震えを感じてくる。もちろん自分が震えているのもそうなのだが、腰を抱こうとしている相手の手も微妙に震えている。
――この人も震えているわ――
と感じたが、だからといって、安心感はない。
――こんな人ほど何をするか分からないわ――
と却って警戒心から身体が固くなるが、相手はそれをどう感じているだろう。
相手が男であることは分かった。その人が自分の後ろにいることも分かっている。なぜならば、その人の息遣いが尋常ではないからで、きつくて息遣いが荒いわけではない。あくまでも恍惚と興奮から無意識に荒げている声であった。
美紀は、大学時代にできた彼氏と身体の関係にはなっていた。男性が恍惚や興奮した時に発する声や息遣いを知らないわけではない。
男の息遣い、嫌いなわけではないが、それも場所と時間による。朝から聞いていて気持ちがいいわけもなく、しかも満員電車の中、異臭が漂っていたり、苦しさから人の息遣いも聞こえる。その中で恍惚の息遣いは気をつけていなければ分からないが、腰に当たる違和感が美紀にそれを気付かせてしまった。
――いやだわ――
生娘ではないとはいえ、やっと最近満員電車に慣れてきたばかりである。
男の息遣いの焦点が美紀に向けられていることに気付くと、背筋がゾッとしてきた。最初は誰をターゲットにするか物色していたのだろう。息遣いの中でキョロキョロしているのが分かったからだ。
ただ、必要以上にキョロキョロすると誰かに怪しまれるだろうから、そのあたりは中途半端だった。
――慣れているのかどうなのか分からないわ――
慣れている人であれば、逃げられないはずで、それも困るのだが、中途半端な人は何をするか分からない怖さもある。
適度な快感を得るために、次第にエスカレートしてくるのも分かっているし、快感というのは、得てしまえばさらに強いものを求めるものである。
「快感に貪欲な人たちがいるから、アブノーマルな世界が存在するのよ」
という話を聞いたことがある。
アブノーマルな世界とは、もちろん人に迷惑を掛けることのないもので、犯罪行為ではないものを差していた。
「SMっていうアブノーマルな世界があるけど、普段は、本当に紳士や淑女だったりするものらしいわよ。中途半端な人たちが結構危なくて、犯罪を起こしたり、プレイで危険があったりするらしいわ」
SMというのがどのようなものかは、テレビドラマや映画でイメージは分かっていた。映画のワンシーンのセリフの中で、
「SMって、一歩間違えば生命の危険と裏表のところがあるから、覚悟としっかりした相手を選ぶ必要があるのよ。何と言っても信頼できる相手でないと絶対にだめね」
というのを聞いたことがあったが、プレイの内容は別にして、
――ある意味、一番深い絆で結びついている人たちなんだ――
と感じていた。
ともあれ、この状況ではあまり余計なことは考えられない。腰の辺りに腕があるからといって、それを払いのける勇気がない以上、耐えなければならない。
だが、それが災いすることもある。やはり息遣いは本物だった。背中から熱い息遣いを感じると、耳の後ろから当たってくる。
明らかに美紀を意識しての息遣いだった。美紀が戸惑っているのを見て楽しむかのように、男の息遣いはどんどん荒くなってくる。
――変態だわ――
何をされるか分からない状態で、下手に動くこともできない。少し首をひねって後ろを見てみたが、そこにいたのは三十歳代くらいの普通のサラリーマンだった。
だが、美紀が振り返った時に見せた一瞬の笑みは、まるでこの世のものとは思えないものだった。その表情は一瞬の出来事で、まるで幻のように感じられたが、それだけに金縛りに遭ってしまったかのようである。
――もう一度見たい――
好奇心からではない。相手の本心を確かめたいからだ。
――本当の変態などが自分の近くにいるはずはない――
という思いを確かめたいのだ。
だが、男はその一瞬だけで、それ以上表情を変えようとしない。
学生時代に「ジキルとハイド」の話を聞いたことがある。まさしくその男はそうなのかも知れない。しかも一瞬にしてジキルがハイドに、ハイドがジキルになれるのである。考えただけでもぞっとする。うまく使い分けることができるから変態なのかも知れないが、平然とした顔をしていても、その奥では何を考えているか分からないと思っただけで、足がさらに竦んでしまう。
美紀はそうずっと後ろを振り返っているわけにもいかなかった。他の乗客に怪しまれることは避けたかった。
痴漢に出会って大声を出して恥ずかしい思いをするのは女性の方だということを認識していたからだ。何とか電車が早く次の駅に着いてくれることを望むしかなかったのだ。
そんな時に限って電車が徐行している。本当であればもっとスピードを出しているはずなのに、どうやら信号待ちの気配すらしてきた。
「信号待ちです。しばらくお待ちください」
というアナウンスとともに、ゆっくり動いたかと思うとすぐに停車、その繰り返しだった。
そのため電車内では少しずつ窮屈になってくる。後ろの怪しい男が、美紀の後ろに立って、じっとしている。
――何もしてこないで――
祈るばかりで、身体は震えが止まらない。だが、その思いは儚いものでしかなかった。電車の揺れと共に男の腕が美紀のお尻を触っている。
「ビクッ」
本能から痙攣を起こした。しかし一瞬であったのと、後ろから男が美紀の腰を支えたことで、他の誰にも悟られることはなかった。
――この人慣れてるんだわ――
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次