「発展性のない」真実
「案外、奥の深いものなんだろうな」
ということであった。
何も分からない自分が下手に調べるよりも、実際に釣りをしている人を見てみたり、話を聞いたりする方が手っ取り早いと思ったのだ。面倒だったという表現は不適切かも知れない。
釣りをしていた人は、
「それなら、俺がしているのを見るといい」
と、言って何も言わずに釣り糸を垂れていた。話をするわけではないが、その人が感じている緊張感が伝わってくるようで、こっちも手に汗握る気持ちになってきた。
そのうち、自分も痺れを切らしてきたのが分かってきた。
「お兄さん、宿では釣り道具を貸してくれるから、借りて来ればいい」
絶妙のタイミングで、釣り人が話しかけてくれた。まるで背中に目でもついているのか、弘樹の緊張感が、痺れを切らすのを分かったかのようであった。
「ありがとうございます。そうします」
そう言って、釣り道具を借りに行き、自分も初めての釣りに勤しむことになった。餌の付け方や、本当に基本的なことは教えてくれ、後は文字通り、釣り糸を垂らしていただけだった。
釣り人は、その後、何も教えてはくれなかったが、その日、弘樹にも何匹か、魚を釣ることができた。宿に持って帰り、調理してもらうことで、自分が釣ったことの意義を感じることができたのだ。
おいしさは格別だった。この味が、自分を釣りの虜にした一つの要因だったのは間違いない。だが、釣りに嵌ったと言っても、奥を極めようとは思わなかった。相変わらず、釣りのできるところへ一人で旅に出て、いつも変わらずに、釣り糸を垂れているだけだった。船を使って沖に出たり、岸壁での釣りを楽しむなどということはなかったのだ。
最後の日に釣った魚は、帰ってきてから、馴染みの喫茶店で、「おすそ分け」にしている。
「君は、欲がないから、それが一つの魅力かも知れないな」
と、釣りの話を最初にしてくれた人が、時々そう言っている。ここでいう「欲」というのは、趣味に対して、奥を探求しようとする気持ちのことである。それがいいのか悪いのか、弘樹には分からないが、素直に聞いて、
「ありがとうございます」
と、答えた。
そこには、皮肉などはなく、純粋な気持ちの表れしかなかった。その気持ちを汲んでくれたのか、ニッコリと笑って、満足げに頷いてくれた。
会社では相変わらず、そして、たまに出かける釣りを堪能しながら、年月は流れ、気が付けば、すでに中年と呼ばれる年齢になっていた。
結婚したいと思った時期もあったが、相手がいないのでは仕方がない。彼女がほしいと思った時期もあり、好きになった人もいたが、そのほとんどは、すでに付き合っている人がいたり、結婚していたりだった。相手がいる人を奪うようなバイタリティがあるわけでもない弘樹は、いつしか、
「諦めることも、人生の一つだ」
と思うようになり、諦めに対して、あまりショックを感じないようになっていた。
「本当に何を考えて生きているんだろう?」
と、自分で疑問に思うくらいなのだが、人生を平凡に生きていることに、最近は少し疑問を抱くようになっていた。
「人生って、そんなに平凡に生きられるものなんだろうか?」
それまでに感じたこともない疑問だった。
それでも、相変わらずの人生しか生きられなくなってしまった自分に若干の後悔も生まれていた。
もちろん、今までに感じたことのない後悔である。だが、後悔と言っても、ずっと引きずるようなものではなく、自分に対しての疑問を抱いた時に、時々感じるものだった。そんなに深い思いでもないことは幸いだった。
後悔が大きなものではないことの大きな理由の一つは、
「孤独も自分の人生だ」
と、思っているからであろう。
孤独というものが、悪いことだと思い続けていると、きっと今までの人生をすべて否定しないといけないくらいの後悔が襲ってくるに違いない。
人生への後悔など、今まで感じたことがなかった。
「後悔なんて、その時々にちょっと感じるだけのもので、何も考えずに生きていれば、別に気にするものではない」
と、楽天的にも見えるが、逆に自虐ではないかとも見えるかも知れない。それも、人によって弘樹を見ていて感じる考え方の違いによるものだ。
中年になると、孤独に対しての考え方が少し変わってくるようだ。
それまで、孤独と寂しさは、違うものだと思っていた。
「孤独な時間は、自分の時間であり、堪能できる時間なので、寂しくなどないんだ」
と思っていたからだ。
下手に人が関わってくると、自分の時間が変わってくる。感じる時間の長さもしかりで、感覚が違ってくると、明らかに自分のペースを崩されてしまう。
「自分の時間というのは、自分のペースを自由に使えてこその時間であり、それこそが、孤独な時間なのだ。だから、孤独な時間は、誰も犯してはならない自分だけのものなのだ」
と思っていた。
だが、孤独という言葉を穿き違えていたことに、今さらながら気が付いた。孤独というのは、寂しさを伴うから、孤独というのであって、寂しさを伴わない自分の時間は別に存在するのだ。
ただ、そう思うと、自分以外の人は、自分の時間というものを持っているのだろうかという疑問を抱く。明らかに弘樹は、「自分の時間」を意識している。意識しているから「孤独な時間」だと思っていたのだが、他の人には孤独な時間が、そのまま一人の時間だという意識でいるならば、
「一人だけの時間をなるべく持ちたくない」
と、思うものだと思っていた。
それこそが、大きな誤解だったのだ。中年になってやっとそのことを分かるというのは遅いのかも知れないが、寂しさを感じたくないという思いを、無意識にずっと抱いてきたことを思い知ると、
「寂しさとは、孤独とは何だろう?」
と感じるようになったのだ。
その時になって、初めて感じたのが、
「他の人の考え」
である。
考えてみれば、他の人と同じでは嫌だと思っていたくせに、他の人の考えを知ろうともしなかったというのも、自分の性格が、それほどいい加減だったことの証明ではないかと思うほどだった。
他の人が感じる「寂しさ」と「孤独」は、同じものなのだろうか? 人によって異なってはいるだろうが、同じものだと思っていいのではないかと思う。
一人が寂しいと思い始めてはいたが、相変わらず、一人の旅行は続けていた。一人釣り糸を垂らしていると、勝手な想像が頭を過ぎる。想像が、現実にも勝ることもあると感じるのだ。
想像であれば、失恋などしなくてもいいのだ。いつまでも甘い恋愛だって、勝手に思い描くことができる。ただ、それは経験に基づかないものであって、我に返って考えると、これほど虚しいものはない。ただ、今までの弘樹には、虚しさという感覚が希薄だった。そのため、想像が妄想に変わっても、限界を感じることはない。ただ、一気に想像してしまうと、途中で息詰まることがあるようで、セーブしながら想像することだけを心掛けていたのだった。
釣りを始めてから、かなりの年月が経ったことで、馴染みの宿も五、六軒に増えた。今回行こうと思っているのは、その中でも一番遠いところで、密かに一番気に入っているところでもあった。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次