「発展性のない」真実
スーツが堅苦しいから嫌だというわけではない。もっと精神的なところでスーツを着るのが嫌なのだ。スーツと言うと、サラリーマンの象徴のような気がする。まるでスーツを着て人ごみに揉まれていると、自分は本当に社会という歯車の一部になってしまったかのように思えてくる。
さらに、違う意味でもっと嫌なのは、スーツを着るのは正装だというイメージもある。何かの賞をいただいたり、人から認められた人が着るものだという思いである。
形から入ることを嫌う弘樹にとって、サラリーマン生活に嫌気が差している自分が、スーツを身に纏わなければいけない理由が見当たらないことで、スーツを着ている自分が嫌なのだ。
わがままな考えだが、本人としては、理に適っていると思っている。それだけ、自分がサラリーマンであるということに、誇りなど持てるはずはなく、何も発展性もない毎日をただ送っているだけになってしまうのだ。
旅行に出かけて、釣り糸を垂れている時だけが、考えていることが記憶に残っている時だ。普段でも何も考えていないわけではない。いつも何かを考えているのが、弘樹なのだ。しかし、それが記憶として残っていない。その理由として二つ考えられる。
一つは、考えていることが支離滅裂で、記憶に残るような理路整然とした考えではないということだ。もう一つは、最初から記憶に残そうなどと思わないような、他愛もないこと、考えるにも至らないようなことを考えていて、今考えていたことすら、忘れてしまうほどのことなので、最初から考えていなかったと思うのも無理のないことなのかも知れない。
「高校時代まで、あれほど、いろいろなことを考えていたのにな」
高校時代まで考えていたこと、それは、考えていたというよりも、組み立てていたと言った方がいい。小学生の頃、算数が好きだったこともあって、数列には興味を深く持っていた。
公式などを考えるのが結構好きで、中学の数学で習ったはずの公式を、さらに頭の中で、
「他に解き方ってないのかな?」
などと、考えるのが好きだった。既製の事実に囚われることなく、自分の自由な発想が許されるものを、弘樹は好んだのだ。
だが、高校生になる頃には、そんな発想は通用しなくなる。大学に入るための勉強を余儀なくされ、勉強するのが嫌になった時期もあったが、それでも何とか大学に入学できたのは、きっと、
「自分の中で、何かを捨てることができたからだ」
と、思うようになっていた。
それが何なのか分からないが、
「人が成長するためには、得るものもあれば、捨てるものもある」
と、少なくとも、そう考えるようになっていた。
弘樹は、整理整頓が苦手だった。
どうしてなのか、最初は分からなかったが、社会人になる頃には分かってきた。
「捨てることができないからだ」
整理整頓する中で、捨てることが、一番効果的でありながら、一番難しい。
「もし、必要なものを捨ててしまったら」
という思いがどうしても頭の中にあり、その思いが捨てられないことに繋がるのは誰も同じことだろう。それなのに、どうして皆、捨てることができるのか、不思議で仕方がない。
「嫌なことは、一刻も早く終わらせたい」
という思いと、整理整頓は、子供の頃から
「押し付けられた」
というイメージが強い。それは、勉強と同じで、やらされているイメージがあるのだ。
勉強であれば、中には好きになる教科もあり、すべてを否定しなくても済むが、整理整頓は、一つが嫌なら、すべてが嫌になってしまう。そう思うと、捨てることができない自分は、整理整頓ができない性格だとしか思えなくなるのだ。
捨てることができない性格の影響が、気の短さに繋がっているような気がしていた。
捨てることができずに整理ができないと、苛立ちが生まれてくる。生まれてきた苛立ちが、捨てることができないことから来ていることだということを分からない。整理整頓という言葉自体に嫌悪を感じるようになると、自己嫌悪が頻繁に起きていることが気になっていたことも頷ける。
釣りをするようになったのは、三十歳に近くなってからのことだった。元々旅行だけは好きだったので、温泉に行くことは年に何度かあった。温泉に行って、おいしいものを食べて、少し近くの観光地を巡るという、誰でも考え付きそうな、平凡な旅行だった。
誰かと知り合いたいという期待もあった。だが、煩わしいのはあまり好きではない。女の子と知り合いたいという気持ちもあるが、それは、
「旅の恥は掻き捨て」
という言葉のように、あくまでも旅行先だけでの知り合いでいいのかどうか、自分でも分からなかった。
だが、心の中では、
「それだけでは寂しいな」
という気持ちも強かった。
もう少し気持ちに余裕があれば、寂しいなどと思わないだろうと思うのだが、
「煩わしいのは嫌いだ」
という思いが、気持ちの中で矛盾していることは分かっていたのだ。
要するに、どちらの気持ちが強いかということなのだろうが、それは、その時々で違うはずである。
同じ旅行期間中であっても、日によって違っていたり、また、同じ日であっても、午前と午後で違っていたりするだろう。それは、きっと一人の時間が長いからなのではないかと思えた。
一人の時間が長いと、一人でいろいろ考える。考えている中にも、様々な思いが交錯することで、多々の矛盾があるだろう。矛盾だと感じていることも、感じながらそのまま意識しないようにしようとしていることもあるようで、
「考えを一つにしたい」
という思いがあればあるほど、混乱を整理できなくなってしまう。
整理整頓が苦手なのは、自分の頭の中を整理できるはずなどないという思いが強いからなのかも知れない。
釣りを始めたきっかけは、やはり旅行先で一緒になった人が、いかにも釣り人です、と言わんばかりに、釣り道具を肩から下げて、宿に来ていたからである。
それを見た時、
「格好いいな」
と感じた。
サラリーマンの趣味といえば、ゴルフというのが頭の中にあった。特に父親が週末というとゴルフに出かけていたので、余計に、ゴルフは嫌だった。
父親に対しての確執は、一人暮らしを始めても残っていた。
すでに父親とは、話をすることもなくなっていたが、嫌だという気持ちと、
「あんな大人にはなりたくない」
という気持ちが同居していて、自分の中で反面教師となっているのだった。
大人になってまで、父親の影が自分の中にあるというのも嫌なことだったが、一人でいたいという気持ち、そして、一人でいても、孤独感を感じないというのは、父親の影が、自分の中に残っているからなのかも知れない。
釣りには、年に数回出かけるようになった。場所も最初はいろいろなところに行っていたが、最近では、決まったところに行くようになった。馴染みの場所が見つかったというところである。
今までの弘樹に馴染みの場所はなかった。本当は、馴染みの店を一軒くらい作っておきたいという思いもあったのだが、それは自分の中にある性格と矛盾していることでもあるので、心のどこかで、
「馴染みの店などできっこないだろうな」
という思いがあったのだ。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次