「発展性のない」真実
家庭教師の先生も、確かにお金で雇われたから、弘樹と一緒にいて、勉強を教えてくれているのだ。形式的なものが表に出てくるのは当たり前だった。
だが、彼女にはそれだけではない何かを感じた。それが何なのか分からなかったが、弘樹はそれを知りたいと思った。
「もし、悩みごとのようなものであれば、逆に僕が聞いてあげたい」
そんな風に自分が思うなんて、今までにはなかったことだ。やはり、先生には何か自分の中で抑えきれない気持ちが燻っているに違いない。
先生と一緒にいると、まわりの人と一緒の世界とは、違う世界を感じているようだ。
先生とは、家で会っていただけではなかった。時々、食事に誘われたり、映画に一緒に行ったこともあった。そんな時、ふとしたことで寂しさを感じることがあったが、気のせいだったのだろうか。
「先生には、彼氏とかいないの?」
と聞いたことがあったが、寂しそうな、だが、急に元気になって、
「いないわよ」
という答えが返ってきた。先生には、何度か同じ質問をしたが、いつも同じだった。
――この子、どうしていつも同じ質問をするのかしら?
と思われるかも知れないが、聞かないわけにはいかなかった。
――今日は違うリアクションが返ってくるかも知れない――
という思いがあったからだ。
確かに毎回同じというわけではないが、それは、その時々の心境の違いが影響しているのかも知れない。気分がすぐれない時は、寂しそうな姿が、さらに沈んでいるように見えたり、逆に気が晴れ晴れとしている時は、寂しそうな中にも、何か訴えてくるものがあるような気がした。
気分がすぐれていない時の方が、訴えてくるものがあるのではないかと思えるが、訴えるものがあったとしても、パワーが足りない。相手が気付かなければ、いくら訴えていたとしても、態度から察することはできないだろう。
先生のことを好きになったのかも知れないと思った弘樹は、先生の態度を気にして見るようになった。先生には寂しそうな姿が似合っている。訴えるものがない方が、先生らしいと思うようになった。
――俺は、寂しがり屋で、弱弱しい感じの女性が好きなんだろうか?
それに間違いはないが、先生を見ていると、それだけではない。確かに寂しい表情をした時の先生の表情に、何とも言えない感情を抱いてしまう。
どちらが年上なのか分からない気分になるのは、先生の顔にまだ幼さが残っているからだが、その時の弘樹には、分からなかった。どうしても先生という立場から見てしまうと、いくら弱弱しい態度を取られても、年上として見てしまう。だからこそ、先生にすべてを委ねようと思い、
「お姉さん」
と呼んでしまうのだ。
お姉さんは、そんな弘樹を弟のように思ってくれているようだ。一緒に映画に行った時も、食事に行った時も、堂々としていた。このあたりが高校生と大学生の違いなのだろう。中学生の頃、高校生を大人のように見ていたが、それはあくまでも肉体的なものから感じていたことで、成長期の真っ只中、中学生と高校生とでは、かなりの違いが肉体的にはある。
――大学生になると、そんなに大人になれるのだろうか?
大学に入学してからのことなど、考えたこともなかった。目の前の受験をいかに乗り越えられるかだけが、弘樹にとって大きな問題であり、その先のことは、考えてしまうと、却って邪念が入り、勉強に集中できないのではないだろうか。
――勉強だけに集中していればよかった高校時代――
こんなことを感じたのは、三十歳になってからだっただろうか。それまでは、考えたことはない。
高校時代がよかったのか、悪かったのかなど、判断がつくわけではないが、高校時代というと、よくも悪くも、ほとんど何も感じなかった時期だったように思う。そんな中で記憶が鮮明に残っているのは、先生のことだけだったのだ。
だが、それも、三十歳を超えて思い出してみると、先生の思い出が、高校時代だったということすら、意識としてないような感じだった。大学時代の中の一時期のことだったとするには、あまりにも一人のことに集中しすぎている。大学時代には、一つのことに集中していた時期などなかったような思いがあるのだ。ただ、それは漠然と考えてのことで、一つ一つを思い出してみると、集中していなかった時期など、どこにも存在しなかったように思えた。
社会人になってから、いや、大学生の頃からであろうか、いつの間にか、毎日を漠然と過ごすようになり、一日が平凡に終わってしまっていることに気付かないまま、過ぎてしまっていたのだ。
本人の意識としては、毎日を波乱万丈に過ごしていたように思えた。毎日何かに疲れていた。それは一生懸命に生きているからだと思っていたが、果たしてそうだったのだろうか?
大学時代の友達とは、よく人生についての話をしたものだ。ただ、それは個人の人生というよりも、生き方の話から、考え方の話、まるでオカルトっぽい話に展開していたこともあった。一言でオカルトというには弊害がありそうなほど、テーマがいつも漠然としていたように思う。
男と女の話も結構したように思う。女好きなのは、友達も弘樹も同じだった。ただ、女好きと言っても、女性の考え方や男の接し方などの話になると、微妙に意見が食い違っていたりして、それが却って会話に膨らみを持たせ、白熱した議論を湧き起こしたのだ。
一つのテーマで、ほんの少し考え方が微妙に違っていただけで、話はまったく違った方向に進展してしまうことがある。それが弘樹にとっては面白く、話を展開させることの楽しさを知った気がした。
喧嘩ではなく、激論を戦わせていれば、自分の理論の正しさを相手に示そうと、相手の考えも無視できなくなってくる。相手も同じように考えを示してくれるのだが、そのことが次第に相手の考えを尊重することになり、尊敬の念を抱く。それが会話となるのだ。自分の理論を理解してくれていることを確かめたいがために会話していると言っても過言ではない、それが、弘樹には至福の時間となっていた。
ただ、その時期も大学時代の中の一時期にしかすぎない。ずっと続いているわけではなく、時々のことだったので、毎日の生活のエッセンスにはなっても、根幹を揺るがすような決定的な違いに変わることはなかったのだ。
ただ、そんな会話も学生時代までのこと。社会人になってから、そんな会話をする人も周りにはいなかった。いたとしても、気付かないし、そんな時間もないだろう。
――男は、表に出れば七人の敵がいるというが――
そんなことを感じたこともない。感じたとしても、敵に回さなければいいのだ。
――敵を作らなければいいんだ――
という思いが高じたのか、弘樹は人に逆らうという気持ちが失せてきた。まわりが言っていることを、そのまま守ればいいのだ。そう思っていたのだが、どうやら、弘樹の考えは違っていたようだ。
弘樹の性格はそんなに単純ではない。天邪鬼なところがあって、つい人に逆らうことが身についてしまっていたようだ。
それは、子供の頃からのようで、育った環境に大きな影響があるようだ。
親が厳しい人だった。普通のサラリーマンなのだが、
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次