「発展性のない」真実
と、思いもしたが、考えてみれば、中学、高校時代に、何か目標があって、それを目指していただろうか? 部活に参加したわけでもなく、目の前にある受験勉強をしていただけだ。ただ、他の人と同じでは嫌だという思いがあったので、皆と一緒に勉強するのは嫌だった。
親から、
「家庭教師を付けてあげよう」
と言われた時、嬉しかったものだ。
家庭教師の先生は、女子大生だった。四年制大学の二年生で、今年二十歳になるという女性だった。
彼女は二十歳には見えないほど、成熟していた。そばに顔が近づいてきて、吐息が聞こえるたびに、まるで魔法に掛かったかのような甘い香りがしてくるのを感じた。まさか、その頃には、自分が大学に入って、風俗通いをするような男になるなど、想像もしていなかった、
背もスラッと高く、まるでスチュワーデスにでもなれそうな雰囲気があり、
「お姉さんは、綺麗ですね」
と、勇気を振り絞って聞いてみたが、
「あら、ありがとう。弘樹君も、かっこいいわよ」
と、言われて思わず舞い上がりかけたが、声のトーンがどこか他人行儀な社交辞令に感じられ、一気に気持ちが冷めていったのを思い出した。
ただ、その時、お姉さんが社交辞令になったのも、勇気を振り絞って言った言葉のトーンが、よそよそしく感じられたことで、冗談のように聞こえたからだった。
そういう意味では、弘樹は損な性格だと言えるかも知れない。
だが、弘樹の心はもっと他にあった。
素直に気持ちを表すことで、身体に起こりかけた変化を気付かれないようにしようとしていた、健気な態度が弘樹にはあった。だが、本人にとって意識していることではなかった。それでも、健気な態度を取りたいという気持ちだけはあったようで、それが照れ隠しのようになっていたのも事実だった。
家庭教師の先生を好きになったのは事実だったが、初恋の女性とは似ても似つかない雰囲気だったのも、それまでの弘樹にとっては初めてのことだった。
清楚で大人しい感じの女の人が、初恋の人で、本当に大人しく、人から話しかけられても、いつもビクビク答えているような女の子だった。それに比べると、お姉さんは、毅然とした態度が見られた。だが、よく見ると、他の男性から声を掛けられて、毅然とした態度を取っている姿が想像できなかったのだ。
お姉さんは、妖艶な雰囲気を醸し出し、そばに近づいただけで、身体が一気に反応してしまう。今までにはいなかったタイプの女性だった。
「誘惑されたら、断りきれない」
という思いが強くあり、
「誘惑されてみたい」
という思いとのギャップが、自分の中で心地よい快感となって、想像を妄想に変えていくのだと感じていた。
想像が妄想を作ることを知ったのは、その時だった。
妄想はあくまでも妄想として、想像とは孤立したものだと思っていた。だから、妄想には厭らしいイメージがあり、想像とは一線を画していると思ったのだ。だが、延長線上だと考えると、妄想も悪いことではないと思えるようになった。
「妄想は、想像から孤立したものだ」
つまりは、想像から離れたくないという思いの中で、勝手に離れていった。あるいは、想像によって、離されてしまったものだと思えたのだ。独立が、自分から離れることであれば、孤立は、本体側に離そうとする意志が存在していたのだろう。
弘樹は、人と関わるのは嫌だったが、女性が好きだった。女性を人として見ていなかったわけではなく、他の人との違いは、身体を刺激してくれるところだった。
「本能のままに生きているのか?」
本能のままに生きることを、まわりはあまりよくは思っていない。それは自分勝手でまわりを見ようとしないからだと思われているからなのかも知れない。それがわがままであれば、その通りだろうが、本能というものが、誰にでも備わっているもので、本当の自分を現そうとしているものであることを自覚しているのであれば、その限りにはないだろう。そう思うと、本能に生きることもまんざら悪いことではないように思えてくる。
人には欲望があり、欲望を果たそうとするのが本能である。性欲を叶えようとする気持ちも、どこまでなら許されるか、大学時代には、そんなことを考えていたものだ。
許す許さないを決めることができるのは、自分だけだと思う。自分の中で許せる範囲を判別できていれば、欲望を抑えることもできるだろう。それはまず頭で考えるよりも、経験によるものが大きいと思う。だが、なかなか本能を許せるところの経験などできるものではない。したがって、余計なことをしないようにしようと、小さく凝り固まる。誰もが同じ考えであると、小さく固まったものが、そのまま真理となってしまい、
「欲望は、抑えるものだ」
という理念が出来上がるのだろう。宗教とも絡み合うと、それが、常識のように考えられてしまう。弘樹には、それが嫌だったのだ。
かといって、自分一人が、何かを訴えたとしても、どうなるものでもない。その思いがストレスとなって、蓄積されていくと、どうしても、まわりに悟られないようにしようという心理が生まれてくる。それが、大学生になると、心を閉ざしてしまったかのようになるのだ。
「自分の心を鎖で縛りつけている」
まわりからは、そんな風に見えるのかも知れない。
変わり者のレッテルを貼られることは、別に構わないと思っているが、そう言っている人たちは、自分の本質だと思っていることが、表面上だけのものでしかないことを分かっているだろうか。
そんな連中から、
「あいつは変わっている。自分の殻に閉じ籠ってしまっている」
と、言われたとしても、そんな連中に限って、自分の本質について考えたこともない連中だと思うと、別に気にもならない。
そうしてまわりを気にしなくなると、自分が表に出しているものが表面上のものだけだと思っても、構わないと思うようになった。なぜなら、自分には自覚があるからである。
「女が好きだ」
という思いは、隠そうとは思わない。自覚があることを表に出すことは、恥かしいことでも何でもないと思うからだ。そんな自分をおかしいと思っている人のことをいちいち考えていては、せっかくの成長期、マイナスばかりを抱えてしまう。それだけは嫌だったのだ。
気が短いのは、すぐにイライラしてくるからだ。人と話をしていたり、人の話を聞いていたりするとイライラしてくる。それは、自分の本質を自分の中に閉じ込めて、まわりに悟られないようにしようとしているからだ。
せっかく相手と仲良くなろうと思ったとしても、相手が隠そうとするのであれば、こちらから歩み寄る必要はない。相手が隠そうとしているのが見えた時点で、相手に対して興ざめするのだ。しかも表に出している部分は、あくまでも自分を飾って手っ取り早く取り繕った部分だけだ。そんな白々しさに苛立ちを覚えるのだった。
弘樹は、家庭教師のお姉さんに、すべてを委ねる気分になっていた。お姉さんにだけは素直になれた。親や友達、先生などには、自分の気持ちは分からない。自分の目の前にいて、逃げ出さない人だけが、自分の味方だと思っていたのだ。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次