「発展性のない」真実
見逃さなかったのは、夢だからなのかも知れない。弘樹自身、自分がそんなに敏いタイプの人間ではないことは分かっていた。もっとも、こんなことに敏いタイプになりたくないという思いがあってしかるべきで、変なところで真面目な自分に、思わず苦笑いをしてみたくなる弘樹だった。
琴音の部屋は眩しかった。匂いも甘酸っぱくて、妖艶さを感じさせる。白いワンピースが似合う清楚な雰囲気にピッタリの部屋のはずなのに、どうしてそう思うのかと考えたが、一番の理由は匂いだった。
だが、ここでさらに疑問がある。
「夢を見ているのに、匂いを感じるのか?」
という思いだ。
そもそも、これが夢だというのも、よく分かったものであるが、時々、弘樹には、夢を見ている意識を感じることがあったのだ。夢の内容は忘れてしまっても、肝心なところだけ覚えていることがある。そんな時、夢で普段なら感じることのできないものを感じたことで、夢だと悟るのだと思う時だった。
女性の匂いについては、分かっているつもりだったが、夢の中の自分は、まだ高校生くらいなので、何も知らない頃の記憶があるだけだった。夢の中では過去の自分であれば、いくつにもなれるが、その時は、未来に対して覚えたことも、すべて忘れて夢に入っているようである。本当に高校生に戻ってしまったようだった。
それなのに、頭のどこかで、自分が社会人であり、仕事を持っているという意識がある。まったく違う自分が存在していて、夢の中では別人なのだ。社会人の自分が夢を見ているという意識を持っていて、実際に夢を感じている高校生の自分は、夢だなどと意識していないのだろう。
夢が終わり、目が覚めていくと、その日は、布団の感覚がないことに違和感を感じていた。手紙を見ながら、寝入ってしまったのか、気がつけば、目が覚めていた。
軽い頭痛に襲われていて、
――一体、どれだけの時間が経ったのだろう?
と、感じていたが、意識がしっかりしてくるにつれて、夢を見ていたという意識も消えていくようだった。
手紙を見ていて、あまりにも記憶と違う内容だったので、
――手紙の内容どおりになっていたら――
という思いに駆られたことで、普段は釣りをしている時くらいにしか働かせない想像力を働かせたことで、夢の世界へと誘うものが、生まれたのかも知れない。
夢から覚めると、身体に程よい弾力性と、暖かさが残っていた。抱き合った時の感覚だったが、裸で抱き合ったわけではないはずなのに、こんなに暖かさが残るものかと思うほどの暖かさに包まれていた。それだけに、暖かさが身体に及ぼす効果を、夢の力だと思うのかも知れない。
夢から覚めてからの方が、琴音のイメージが湧いてきた。本当であれば、夢から覚めてくる間に、夢の中のことは忘れてしまうはずなのに、どうしたことなのだろう?
若くて可愛い女の子のイメージが夢の中であったのは、自分も高校生になっていたからだ。高校生というと、まわりは皆大人のお姉さんだというイメージでありながら、夢の中では、どこか、現実と結びついているところがあったのだ。だからこそ、琴音のことを、いとおしいと思った瞬間、若くて可愛い女の子のイメージに変わったのだろう。
もし、高校生の感覚がなければ、琴音に対してのイメージが変わることもなかっただろう。夢の中で琴音のイメージを変えることが主旨であったとすれば、自分が高校生になっているのも分かる気がした。すべてが過去のことをイメージしている感覚なので、そう感じるのだ。未来に向けての夢など、今まで見たことがなかった弘樹だった。
琴音と、本当は連絡先を交換しておきたいと思っていたのに、翌朝早くいなくなっていたのはショックだった。
「僕が嫌われるようなことをしたのかな?」
と、感じたが、もしそうであるならば、却って諦めがつくというものだった。中途半端に思いを残していると、忘れるのには時間が掛かる。自分が悪いと思うのであれば、嫌いになるのは当たり前、簡単に諦めがつくことで、すぐに忘れることもできる。
そんな考えになったのは、最近のことだった。四十歳を超えて、中年を意識するようになると、次第に、しつこく相手を求めるような考えはなくなっていった。二十歳になった時、自分が大人になったような錯覚を覚えたのと、似ているかも知れない。簡単に諦めがつくことは、自分にとって悪いことではない。しかも、誰に迷惑を掛けるわけでもないことから、
――人間が丸くなったように見られるかも知れないな――
とも、感じるようになっていた。
だが、その反面、マナーの悪い人を許せないところがある。特に咥えタバコやポイ捨て、電車の中での携帯電話の通話など、ちょっとしたことが許せないのだ。
――三十代までは、許せないという思いまで抱かなかったはずなのに――
と、思うようになり、良くも悪くも、四十歳を境に、明らかに弘樹は変わっていたのである。
自分が変わってしまったことを、悪いことではないと思っている反面、夢の中では高校生になっている自分を感じるというのは、何か違和感を感じるからなのだろうか?
今回の夢は、覚めてくるにしたがって、夢を思い出せるということは、本当に見ていた夢と同じなのかどうか、疑問に感じていた。夢に見たいと思っていたことと、違う夢を見ていたために、本当に見たかった夢を、ねつ造しようとする自分の中にある正直な気持ちが、夢という形であれば、許されるという思いを元に作り上げた虚像なのかも知れない。
目が覚めるまで、忘れてしまわない夢というのも、今までにいくつかあるが、これもねつ造ではないかと思えてきた。
しかし、忘れてしまわない夢の多くは、怖い夢であった。一刻も早く忘れてしまいたいと思うような夢であったのにも関わらず、忘れないというのは、ひょっとすると、氷山の一角ではないかとも思っていた。それだけ、似たような夢を見ることで、マンネリ化してしまった感覚が、記憶には響かないのかも知れない。
琴音の手紙には、かすかにある記憶の中で、微妙に違っているように思うのは、そこに、もう一人、自分に似た人がいるのではないかと思えたからだった。
顔が似ているのか、性格が似ているのか、それとも、行動パターンが似ているのか、すべてが似ているわけではなくても、どれか一つが似ていると、連鎖で他も似てくるのではないかと思えてくるのだった。
行動パターンが似ているのであれば、性格が似ていないとしても、相手が考えていることは分かってくるかも知れない。ただ、自分にだけ見ることができない相手であり、気配すら感じることはない。しかも、誰の目にも見えるわけではなく、何かの共通点がある人にしか見えないとすると、その人は、自分にとってどんな人なのかということを、想像しないわけにはいかないだろう。
どんな共通性があるというのか、それが大きな問題である。共通性が深いところにあるからこそ、同じ世界では存在しえないのかも知れない。いや、存在しえたとしても、同じ世界の中の、別の空間に存在しているものなのかも知れないという発想である。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次