「発展性のない」真実
字は体を表わすというが、小柄だった彼女のイメージがよみがえってくるのを感じた。それでも人の顔を覚えるのが苦手な弘樹には、顔まで思い出すことは無理だったのだ。
内容を読んでいくうちに、次第に不思議な感覚に襲われてきた。書いてあることが、自分の記憶と随所に違っていたからである。
まず不思議だったのは、一緒に初日に夕食を食べたというところであった。
確か、温泉から上がってきた時に話をしたので、夕食はとっくに終わっている時間だったはずである。二日目であれば、記憶に間違いはないのだが、確かに初日と書いてある。ずっと一緒に行動をともにした日を初日と考えるなら、初日でも間違いではないのだろうが、それにしても、食事をした時に会話に花が咲いたと書いているが、食事の時間中は、食事に集中していたはずである。集中して食べている間、会話はなかったが、その間、彼女が独り言を呟いていたような気がしていた。気にはならなかったが、
――おかしな人だな――
と思ったのは確かであるが、呟いている内容は、まったく聞こえなかった。声は小さかったが、聞き取れにくいほどではなかったのに、何を言っているのか、さっぱり分からなかった。分からないように呟いていたようだが、それが作為的なものなのかどうかは、分からなかった。
雰囲気を見ていると、学生時代には、
「夢見る少女」
だったのではないかという雰囲気があった。
白いワンピースに、白い帽子が似合いそうな雰囲気は、お嬢様を思わせ、風に揺れるシルエットが、目を瞑ると浮かんでくるような気がするのだ。
顔を思い出せない理由の一つに、シルエットのイメージが強く残っているからというのもあるかも知れない。だが、シルエットが思い浮かぶ人というのは、そんなにたくさんいるわけではない。琴音は、その中でも希少価値とも言える存在であった。
手紙の中の琴音は、一緒にいた時とは違って、饒舌である。口下手な人でも、手紙になると、いくらでも文章が出てくる人もいる。琴音はそんな女性なのだろう。
弘樹が、可愛いと感じた女性のほとんどは、上手な文章を書いた。弘樹の心を打つような文章なのだが、それは相手のことを素直に受け止める気持ちがあるから書ける文章なのではないかと思えた。
風俗の女の子の中に、
「私、実は夢があるの」
と言って、小説家を目指したいと思っている女の子がいた。
「官能小説かい?」
と言うと、一瞬、悲しそうな顔になったが、すぐに気を取り直して、
「ううん、普通の恋愛小説ですよ。私だって、純愛に憧れたりしますし、素敵な王子様の出現を願っているんですよ」
と、話していた。
彼女も、白いワンピースが似合いそうな女の子だった。高校時代には、演劇部だったと言っていたが、お姫様役もやったことがあると言っていた。
「演じるだけでは我慢できなくなって、今は実際に書いているんですよ。そういう趣味があるから、余計にこのお仕事が好きになったのかも知れないです」
彼女は、この仕事を好きでやっていた。金銭的なものは二の次で、
「喜んでくれるのが、嬉しくて」
と、話していたが、それだけではないようだ。趣味と実益を兼ねてというわけではないのだろうが、話をしていて、落ち着いた気分になれたりするのも。その一つかも知れない。
――彼女なら、釣りが似合うかも知れないな――
短気な人が釣りに似合うと言われるが、彼女が短気だとは考えにくい。どちらかというと、
「思慮深い人が、釣りに似合う」
と、言った方がいいかも知れない。
考え方がポジティブで、発展性のある考え方をする人は似合うのだろう。
――じゃあ、僕のように発展性のない人は?
思わず、考えたことが矛盾していることに苦笑いしてしまった弘樹だったが、ただ、何か新しいことを始めてみたいと思ったことがあるのも事実で、それでも、行動に移さないのであれば、同じことであった。
だが、彼女と一緒にいる時は、本当に何か新しいことを始めてみたいと思うのは事実であった。彼女のように小説を書いたり、芸術的なことができるとは思えなかったが、釣りを始めたきっかけを作ってくれたのは、彼女と話をするようになったからなのかも知れない。
釣りをしていると、いろいろなことを考えてしまう。ただ、考えていると、いつも同じところに考えが戻ってくるのが、気になっていた。自分の中の考え方に限界があり、そこを過ぎるとUターンして考えが戻ってくるということではないだろうか。
Uターンするくらいのところまで考えが及んでいるのなら、釣りをしている時の自分は、発展性のある考えを持っているのだろう。今までの自分に深みを持たせるという意味で、釣りという趣味は、大いに役立っている。
琴音との温泉宿での思い出を思い出そうとしていたが、あまり思い出すことができなかった。人の顔を覚えられない感覚に似ているような気がして、仕方がなかったのだ。
手紙の中を見ていくと、やはり記憶とかなり違っている内容が書かれていた。
――本当に相手は、僕だったのか?
と、考えてみたが、元々、どうして弘樹が教えてもいないはずなのに、簡単に手紙を送ることができたのかというところに、考えが戻ってきた。今のように個人情報に対して厳しい世の中で、勝手に教えられるわけはないはずなので、疑問はもっとものことで、気持ち悪さを拭うことはできなかった。
ただ、夢の中で、琴音と話をしながら、自分の家に招待したような記憶があった。それは、最初に琴音が自分の家に弘樹を招待してくれたことで、彼女に対して生まれた安心感がもたらしたものだった。礼儀に対して、こちらも礼儀で返すという考えは、いくら発展性のない人間と言えど、心得ているつもりであった。
琴音の家は、白壁の家で、異人館のようだったが、さほど大きさは感じなかった。それでも、まかないさんがいるようで、他に家族はいなかった。燕尾服の運転手のおじさんもいて、裕福な感じを受けた。
――別荘なのかも知れない――
海に面したところに作られた建物は、空や海の青さに照らされて、さらに白壁が目立っていたように思える。
自分が中年だということを、すっかり忘れてしまいそうなのだが、不思議なことに頭の中では、彼女に比べて、自分の年齢がかなり上であることだけは意識していた。それなのに、発想や彼女と接している自分は、琴音と同い年か、または、年下ではないかと思えるほどだった。
そのくせ、琴音に対して引けを取らない自分を感じている。唯一、琴音のことを分かっていないことが、自分にとっての「引け」ではないかと思うだけだったのだ。
琴音の部屋には、男が入ったことなどないような雰囲気が漂っていた。(実際にもないはずだが)そんな部屋に入っていいものかと、思わず後ずさりしてしまいそうになるのを、必死で堪えた。そんな弘樹の顔を見ながら、妖艶に微笑んだこと値の表情を、弘樹は見逃さなかった。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次