「発展性のない」真実
「今度、私も連れていってくださいよ」
と、言ってくれたことがあったが、なかなか実現はしないだろうと思いながらも、返事だけは大げさに、
「もちろんさ、僕のそばにずっといて、離れたらだめだからね」
というと、
「大丈夫よ。そんなに心配なら、手錠を掛ければいいのよ」
と、手を前に差し出し、手首を重ねるようにして、手錠を掛けられた時の仕草を見せた。手錠とは、拘束するという意味もあれば、相手と同等の関係だという意味もある。拘束しているのが一体どちらなのか、弘樹は彼女に手錠を掛けた自分を思い浮かべてみた。
こんな奇抜な話ができるのも、風俗嬢ならではなのだが、女将とも同じような話をできる気がした。
大人のジョークとも言える会話ができるのは、ひょっとして風俗嬢との会話から、自分の気持ちを素直に表に出せるようになったからなのかも知れないと感じていた。
今回の来訪では、もちろん、女将さんとの対面にドキドキしないわけはなかった。だが、冷めた目で見られるかも知れないというのは、最初から想定していたこと、むしろ、今までの経験からいけば、時間が経ってしまえば、強烈な思い出ほど、色褪せてしまうのは早いものであった。
女将さんの身体は、風俗嬢とは違っていた。明らかに身体が固かった。普段からサービスを心掛け、その通りに身体を使っている人とは違う。身体と精神が一致してこその、男女の肉体関係。そう考えれば、女将さんの固かった身体が、余計いとおしく思えたのだ。
前回の来訪での女将さんの記憶は、身体が固かったという記憶くらいである。あれからまだ数か月しか経っていないが、
「数か月も経ったんだ」
と、身体の方がそう感じていたとすれば、気持ちも身体について行ったのかも知れない。数か月という期間は、中途半端であった。
今回の来訪では、身体が満足するようなことはなかったが、一人の女性と知り合えたことは嬉しかった。だが、連絡先を聞くこともなく、彼女は知り合った翌朝、すぐに出かけてしまったというのは、腑に落ちない部分があるが、この旅館での初めての出会いである。何か期待するものを感じさせる気がしていた、
家に帰ると、すでに、旅館でリフレッシュしたはずなのに、元に戻ってしまった。
「発展性のない人生」
それが、弘樹の代名詞だった。
毎日、朝から満員電車に揺られ、会社に出勤し、毎日を同じ業務でこなして、上からと下からの板挟みが、血液の中で脈を打つような味気無さだけを残しながら、毎日の業務を終える。馴染みの喫茶店に寄るくらいしか、日々のストレス解消はない。最初の頃はそれでも、よかったのだが、最近は、満足できなくなってきた。欲が出てきたのか、それとも余計なことを、無意識に考えるようになったのか、そして、それが年齢からくるものなのか、いろいろ考える。
年齢からくるものであるならば、あまりありがたいことではない。年は取っていくもので。若返ることなどないからだ。
いや、若返らないとしても、過去のある時期に戻ってやり直したいとも思わない。どの時期に戻ったとしても、結局は精神的にすべてが中途半端なのだ。
その理由は、いつも考えていることが一つではないということだ。何も考えていないつもりでも、無意識なことを含めれば、絶えず進行して何かを考えているように思う。それを考えると、どの時点に戻ったとしても、やり直せるだけの精神状態になどなりえないのだ。
それに、今に不満はたくさんあるが、満足できていないわけではない。今さら違う精神状態を持つなど、考えられないことだった。
女将さんとの一夜は、弘樹にとってかけがいのない日ではあったが、それだけであった。発展性がないものは、やはり、その時かぎり、よく行きずりの恋などという言葉を聞くが、要するに、一晩限りのもので、満足できるなら、それで十分だという人がいるということだ。
結婚しているが、旦那だけでは我慢できない妻、また逆のパターンで、男性の中にも、妻だけで我慢できない人もたくさんいるだろう。
そんな人が不倫に走るには、リスクが大きいとして、その日限りのアバンチュールに走ることもある。不倫の香りを限りなく漂わせたもので、男であっても、女であっても、お互いに結婚しているというだけで、拘束された気分になることで、つまみ食いをしたくなるのも、分からなくはない。
かといって、認めることができるように思えてきたのは最近だった。
「伴侶がいるのに、どうして他の異性を求めたりするんだろう?」
と、思うのだったが、欲という感情について考えていない時は分からなかったが、今は分かるような気がする。
さらに、若い頃は、聖人君子のような考えに憧れた時期もあった。付き合っている人、さらには、伴侶を裏切るなど、ありえないと思っていた。生活の面でも、破局に向かう自分を考えないのか、それとも、快楽に簡単に人間は負けてしまうのかと思えてならなかった。
実際には快楽に負けてしまうという考えはありえるだろうが、リスクという問題よりも、自分の信念として、弘樹は許せなかった。どちらかというと、マイナス面の考えが大きな弘樹だったが、自分に素直に、つまりは正直に生きるという信条だけは、誰にも負けないという気持ちがあった。
弘樹は、あまり女性と付き合ったことがなかったので、不倫や二股をかける以前の問題だった。
――風俗の女性を意識するから、他の女の子への気持ちが萎えてしまうのかな?
と、感じた。
弘樹の中に、罪悪感を感じることがあってはならないという思いが強かった。風俗に行くことは罪悪感に繋がることはない。最初の頃は、
「お金がもったいないな」
と思うことはあったが、果ててしまった時に感じる憔悴感はなかった。
他の人であれば、果ててしまった後の憔悴感が、身体を支配するのだが、弘樹にはそれがない。
「自分に対して甘い」
と言われればそれまでなのだが、弘樹の場合は、甘いというよりも、
「ストレスを解消しないと、何を考えるか分からなくなる」
という思いから、それならば、甘くても、風俗で解消する方がいいと考えるのだ。
今まで、女性と付き合っている間でも、風俗通いはしていた。風俗は、不倫でも二股でもないという考えが、甘さと言われれば仕方がない。
――知らぬが仏――
という言葉があるが、好きになった女の子が風俗嬢であったとすれば、どうなるか怖くなる。その時点で、どちらを選んでも、後悔がないということは考えられないからだ。
「僕が風俗嬢を好きになることなんてありえない」
と、言い切れないかも知れないが、発展性のない自分に、彼女たちが、自分を好きになるオーラを発することもないように思う。
弘樹は、オーラを感じないと、相手を好きになることはない。つまりは、相手が自分を好きになってくれることが前提で、好きになられない限り、相手を好きになることはないのだ。
弘樹にとって、相手が誰であれ、
――自分を好きになってくれる人が、自分が好きになるに値する女性だ――
という気持ちになるのだった。
――好きだから、好かれたい。好かれたから、相手を好きになる――
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次