「発展性のない」真実
目が覚めた弘樹は、すでにその時、琴音がいなくなっていることが分かっていたような気がした。だが、
「ああ、山村様なら、早朝にお発ちになられましたよ」
と、女将さんに聞かされた時、想像以上のショックな表情をしていたのだろう。女将さんが弘樹を見る目が、明らかに萎縮していたように思う。そのため、弘樹もビックリしたくらいで、お互いに苦笑したくらいだった。
だが、弘樹はまたしても、急に冷めた気分になった。顔から血の気が引いていくのを感じる。弘樹が冷めたような気分になる時は、顔から血の気が引いてくる時だったのだ。
血の気が引いてくると、相手にも分かるようで、それが弘樹の冷めた気分になる時だというのも分かっているようだ。人によっては冷めるというよりも、我に返る時もあるようで、一概に悪いことだとは言いにくい。
「血の気が引いてくる表情というのが、人によって異なるので、相手をするのが難しい時もありますよ」
と、最初、弘樹の血の気の引いた表情を見て、驚いた話を後で女将さんから聞かされた時、そんな話をしていた。
「そうですか? 僕の表情って、難しかったですか?」
「そうですね。少しビックリしました。目が座って見えてきたりしましたので、どう対応していいかって、悩みましたよ」
と、苦笑いをした。
女将さんと話をする時、お互いに苦笑いをすることが多い。それだけ話の内容に深みがあるのか、それとも、含みを持たせた話が多いのか、どちらにしても、
「大人の会話」
だと、弘樹は思えたのだ。
大人の会話ができる人が、今までまわりにいなかった。いたかも知れないが、最初から話をしたいと思う人でなければ、先に進まない。相手も、発展性のない様子が見える弘樹と、わざわざ話をしたいとまで思わないだろう。
女将さんは、さすがだと思えた。生まれついての話し好きなところもあり、さらに、話題性も豊富なところは、本を読んだりして努力も惜しまないところもある。
そんな女将さんと話をするのは、好きだった。発展性のない中で、話を含みを持たせたいと思わせるのは、それだけ、会話を長引かせたいと思うからで、
「充実した時間を過ごしたい」
という、率直な気持ちが、自分にとって素直な気持ちに繋がっていることに気付いたのだった。
琴音は、朝早くから出かけるような話をしていたわけではなかった。ひょっとすると、急に思い立って、すぐに出かけたのかも知れない。
ただ、逆に、本当は最初から早く出かけるつもりだったが、弘樹との話が面白く、
――もう少しいてみようかな?
と思ったが、一人になると、今度はまた早く出かけようと、元の考えに思いなおしたのかも知れない。
それは、弘樹にとって都合のいい考えだったが、それで、気分的によくなるなら、それでもよかった。今までには絶対にすることのなかった想像だったからだ。
楽天的な想像は、今までにしたことがない。それはただの夢であって、夢というのは、ちょうどいいところで目が覚めてしまう。つまり、成就することがないことを示しているのだ。
琴音と話をしていて、
「この人とは、仲良くなれそうだ」
と、思っていた。その日、もう一日一緒にいれば、その時は連絡先を聞いたりできると思っていた。
元々、孤独を味わいにきた旅行だったので、一人でいることに何ら問題はないのだが、一旦誰かと知り合ってしまうと、一人が物足りないことを、思い知らされたような気がして、仕方がなかった。
その日、一日が弘樹にとっても最終日、昼頃まで釣りをして、夕方には家路につくつもりでいたのだ。
熱しやすく冷めやすいのも弘樹の性格で、朝食を食べ終わる頃には、一人の状況の自分を思い出していた。琴音がいないことに違和感がないわけではないが、一人の自分を思い出したことで、
「普段の自分に戻っただけだ」
と、そこから先は、本当に普段通りだった。
釣りに出かけても、その日は釣れなくてもよかった。本当は、いつもなら、釣れた魚は夕食に出してもらうのだが、最終日には昼食になる。それに時間を考えても、さほどの成果は期待できるものではなかったからだ。
いつも最終日は、慌ただしく一日が過ぎていった。
朝起きて、
「今日は、もう帰ってしまうんだな。夜には、家にいるんだ」
そして、実際に家に帰ってから思うのは、
「朝は、まだ、温泉にいたんだ」
と、感じることで、その間があっという間であったのに気付く。それだけ慌ただしい中でも、考えが繋がっているのを感じると、その間はあっという間で気持ちだけが、時間を超越して繋がったかのように思えるのだった。
やはり、その日は何も釣れなかったが、釣りをしている後ろに、昨日のように、琴音がいるような気がして仕方がなかった。
気が散っていたわけではないが、琴音がいるような気がしたのは、それだけ、昨日のことが、まるでさっきまでのことのように思い出されるからなのか、琴音という女性のイメージが頭から離れないのかのどちらかであろう。
そのどちらも確かにあるが、どちらが強いかと言われれば、
「昨日があっという間だったような気がする」
という気持ちだったのだ。
なぜなら、昨日一緒に、夕食を食べたりしたことを思い出す方が、もっと以前だったように思えるからだ。同じ場所で、シチュエーションを思い出すからだと言うことを差し引いても、時系列の違いは、大きなものに違いない。
「野村さん、また来てくださいね」
「今回もお世話になりました」
女将さんに言われて、言い返したが、弘樹の言葉に、女将の顔が少し上気したのを見逃さなかった。その眼は潤み、寂しそうな雰囲気が感じられた。
弘樹は、前回この宿に来た時のことを思い出していた。
あの時は、今までにきた中で、一番精神的に乱れていた時だった。
それまで、欲など考えるなどなかった弘樹だったが、その時も精神的に荒れてはいたが、それが、なぜなのか分からなかった。発展性のないことで、自分は苛立つこともない。そして欲を掻くこともない。さらには、
「孤独こそが、ここにいる時の自分の本来の姿なのだ」
と、思っていた。
実際には、孤独だとは思っていない。孤独というのは寂しさを伴って初めて孤独というのだと思っていたからだ。
だが、寂しさを伴わない孤独もあるのだということを知ったのは、何を隠そう、この温泉に来るようになったからだ。
女将さんと知り合って、それを知った。そこには欲が存在していた。
孤独な弘樹を看破した女将さんは、
「私も寂しいのよ」
それまでの女将さんとは、明らかに違っていた。
その時は他に宿泊客もなく、弘樹だけだった。その前日も、またその前も、宿泊客はなく、
「一週間ぶりのお客様が、あなたなの」
と言っていた。
完全に、女将さんは、「オンナ」になっていた。妖艶な雰囲気は、今までに知っている女性にはないもので、
「これがオンナというものなのか」
と思わせるに十分だったのだ。
女将さんが抱き付いてくる。考える暇を与えないようにするためか、強く唇に吸い付いてくる様子は、まるで切羽詰っているかのようだった。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次