「発展性のない」真実
発展性のない考えというのは、ストレスを溜めたくないという思いから、派生してできあがったもののようだ。
ストレスを溜めないようにするには、何も考えないようにするのが一番だが、何も考えないようにするのは難しい。却って、気になってしまうというものだが、発展性のない考えを持つことが、考えないようにするのに一番近い考え方だという、少しずれた考え方をするようになったのだ。
それがいつ頃のことだったか、ハッキリと覚えていないが、忘れてしまったわけではない。
覚えていないのは、忘れてしまったわけではなく、記憶の裏に、紙一重でしがみついているものもある、何かのきっかけで思い出すこともあるだろう。
記憶喪失でも、突発的な記憶喪失もある。何かのきっかけで思い出すことができるのが、そんな突発的な記憶喪失であろう。
ただ、本人の意識の中で、
「絶対に思い出したくない」
と思っていることもある。
それは、記憶の中で封印してしまったものであり、意識しているだけに、奥深くにしまい込んだりするはずのないものであった。
付き合ったと言っても、身体の関係にまで発展した人は、ほとんどいない。身体の関係になったとしても、長続きしないのではないかと思ったのは、弘樹の方だった。
「願いが叶ったら、急に冷めてしまうことがあるというが、そんな感覚に近いかも知れない」
目標にしていたことが達成されれば、目標を失うということは、多々あるものだ。
目標が高ければ高いほど、叶ってしまった目標が思っていたよりも、感動がなかったり、想像とは違っていたりした場合に冷めてしまうことは多いだろう。
また、目標が叶ってしまったことで、今度は何をしていいのか分からなくなってしまう。いわゆる意気消沈してしまうという事態に陥ることもあるだろう。
むしろ、そちらの方が大きいかも知れない。目標を持っていた人間が、急に目標を失うと、まるで抜け殻のようになってしまう。
ただ、意気消沈してしまうということは、目標に置いていたことが、彼女を得たいという漠然とした気持ちよりも、もっと生々しく、身体を求めていただけだということになるのではないか。それを認めたくない気持ちが弘樹にはあり、急に冷めてしまったことを認めながらも、その理由については、言及しようとは思わなかったのだ。
また、自分の目標が、ただ身体を求めていたのではないかということに気付いてしまうと、自己嫌悪にも陥ってしまう。それを認めたくないという思いが、冷めてしまうという行動に落ち着く結果になってしまったのだ。
――彼女は、自分を知っていると言った。だが、僕は覚えていない。冷めてしまったことで忘れてしまうことは今までにもあった。同じパターンだとすると、彼女に対して、僕は何を冷めてしまったというのだろう?
自問自答を繰り返していたが思い出せない。
翌日、弘樹は朝寝坊だった。と言っても、まだ九時過ぎだったので、普段の休みよりも早いくらいだった。昨日は、琴音と一緒に夕食を摂り、日本酒を酌み交わしながら、いろいろ話をしたような気がしていたが、記憶にはなかった。
少しだけ起きるのが億劫だった。睡眠時間は、少し短かったように思うが、それでも、何か夢を見ていたような気がする。夢を見たということはそれだけ、ゆっくり眠りに就いたということだ。
夢を見るのは、眠りが浅いからなのか、深いからなのか、分からない。浅い時に夢を見ることもあったからだ。
夢を見た時は、ちょうどいいところで目を覚ます。目を覚ましてから、少し意識が戻るまでに時間が掛かる。このことから、夢を見るのは、眠りが深いからだと思うようになっていた。
確かに、眠りが深いと、気が付けば夢を見ていて、ちょうどいいところで目を覚ましてしまうということが多い。夢は毎日見るわけでもなく、夢の続きを見たということも、記憶にはない。
夢は記憶に残すものではなく、その時だけの一点ものではないだろうか。精神状態が不安定の時の方が夢を見る確率は高いのではないかと思う。夢は、現実社会で達成できないことのより派生する願望ではないかとも思うくらいだ。
だから、夢で覚えているものは少ない。ただ、逆に、記憶としては残っているが、意識としては、決して表には出さないものが夢なのだという考えもある。
夢を見ていると、初めて会った人なのに。どこかで会ったことがあるのではないかと思うことがある。
「夢を他の人と共有しているのではないか」
かとさえ思うくらいで、ひょっとしたら、琴音も、弘樹が覚えていないだけで、夢の中で出会ったことがあったのかも知れない。
「もし、夢の続きを見ることができるとしたら、その時は、琴音のことを忘れずに覚えていたのかも知れないな」
とも感じた。
しかし、夢の世界というのは、現実よりも、理路整然としているのではないかと思う。覚えていないということは、それだけインパクトに欠けるということだ。インパクトに欠けるのは、それだけ、印象が浅い、つまり、奇抜ではないということでもある。
奇抜さは、理路整然とした中からは生まれない。決まっている自然の摂理に逆らうこともなく進んでいると、考える力も薄くなり、何も考えなくなってしまう。その方が楽だからだ。楽になることを覚えると、どうしてもそちらに向かうのも、自然で無理のないことだと言えないだろうか。
規則性のある夢が、続きを見せないのは、そこに意思が働いているわけではなく、自然の摂理の一つなのかも知れない。それは、現実世界と、夢の中の世界とを決定的な壁を作り、お互いを行き来できないようにしているのと似ている。夢は夢の世界の中で、完結しているものだという考えがあるからだ。
――では、夢と夢の間では、何か結びつきはないものだろうか?
現実の世界のように、共有できる世界があるのではないかという考えは突飛なものであろうか。突飛であればあるほど、夢の世界への思いが募り、現実世界では考えない発展性を考えるようになっていた。
空想という言葉は嫌いではない。特に最近、本を読むようになったきっかけは、テレビで見た空想映画だった。子供の頃に戻ったような感覚になり、ワクワクしながら見たものだ。
本を読むのと、映画で見るのとでは、また趣が違う。映画で見たものの原作を読んでみると、結構面白かった。ストーリーの展開は分かっていても、文章から想像させる内容が、映画と違っていたりなどしたら、余計に空想が膨らむ。
逆に本で読んだものが映画化されたりすれば、見に行ったこともあったが、映画が終わる頃には、少し幻滅している自分に気付いた。どうしても、最初に描いた空想に、映像がついてこれないのだ。
「見るんじゃなかった」
と思ったが、見てしまったものはしょうがない。再度読み返すことで、空想がよみがえってくる。それだけ弘樹には、映像の印象は浅かったのだ。
夢についての本もいくつかあった。小説なのに、どこか論文のように感じるのは、テーマがそれだけ重たい証拠であろうか。確かに夢の世界に思いを馳せてしまうと、妄想であっても、何でも許せてしまう感覚に陥ってしまう。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次