「発展性のない」真実
「私は、見たことがあると思えば、次第に思い出していくタイプのようなんですが、今はまったくどこで会ったのかも思い出せないですが、そのうちにいろいろと思い出せるようになるかも知れないと思っています」
彼女の性格が少しずつだが、分かってきたように思えた。
ゆっくりだが、確実なタイプの性格。どちらかというと、弘樹とは違ったタイプなのかも知れない。弘樹はあまり発展性のない性格ではあるくせに、何事もすぐに結論を求めてしまうところがある、いわゆる、「慌て者」なところがあるのだった。
慌ててしまって、焦ることで、思ったような成果が現れない。まわりからは、そのことで、認められず、いくら努力しても報われないという思いに至っていたのは事実のようであった。
慌てても、何もいいことがないのは分かっているつもりだったのに、冷静になれないのは、子供の頃からだった。
小学校の頃、何が嫌いだったかといって、国語ほど嫌いなものはなかった。テストでも、文章を読まないと答えに辿り着けないことに、イライラしてしまって、ついつい問題もまともに読まずに答えを見出そうとした。
中学に入って、本を読むようにはなったが、気が付けば途中の文章は、ほとんどまともに読まずに、セリフのところだけを見て、ストーリーを勝手に作り上げていた。本を読んでも面白いわけでもないのに、どうして本を読んだりしていたのだろうか? 実は今でも弘樹にとっては謎であったのだ。
大学生になる頃には、だいぶ落ち着いてきた。文章もまともに読むようになったが、今度は、人の考えを読むのが苦手になっていた。
「子供の頃には、分かっていた人の考えが、今では分からなくなってしまったかのようなんだよ」
と、友達に話したことがあったが、
「それは、焦って見ていることが、お前の本当の性格だったのかも知れないな。まわりが何と言おうとも、それがお前の真実であるなら、それを徹底して自分で貫けばいいんだ。それができなくなったから、分かっていたものが分からなくなってしまったんじゃないかな?」
と言われた。目からウロコが落ちたような気がしたが、それでも半分納得がいかない。あまりにも突飛な発想だったからだ。だが、友達の言葉には説得力を感じる。確かにそうなのかも知れない。
ゆっくりで確実な性格は。
「石橋を叩いて渡る」
そんな性格であるが、叩いても渡らないわけではなかった。叩いても渡らない性格であれば、ただの頑固者と捉えられるかも知れない。中には、自分が見たモノ、触れたモノ以外には信じられないという人もいるが、弘樹は、そんな性格は嫌いではない。嫌いではないが、自分にはなれない性格だと思う。自分になれない性格の人に対して、羨ましいと感じる時と、自分とは、生きる道が違うんだと思う時とに分かれてしまう。まったく正反対のように思うが、結局は羨ましいと思うから、道が違うと思うのだし、道が違うから、羨ましいと思うのだ。正反対の性格だと言っても、紙一重のところでの違いが、受ける人によって、感じ方が違うということになるのかも知れない。
頑固だと言われる人も、弘樹が見れば羨ましく思えてくる。自分と違う性格の人を羨ましいと思う習性があるとすれば、弘樹はまわりの誰もが羨ましく感じられるのだ。
――まわりの人が、皆自分よりも優れているように見える――
と、いつも思っている。それはきっと、まわり皆を羨ましく思っているからなのかも知れない。
弘樹にとって、頑固な人は嫌いではないが、話をしていて、衝突が免れないように思える。きっと口論になるだろう。口論になってしまえば、心にもないことを罵ってしまわないとも限らないと思うと、なるべく争いは避けたいと思うのだ。
頑固な相手は、一歩も引くことはないはずだ。そうなれば、弘樹が引かないと、収拾がつかなくなる。
弘樹にも一歩も引く気がないことは自分でも分かる。
――それなのに、頑固ではないと言いきれるのか?
頑固ではないと、ずっと思っている根拠はどこにあるというのだろう。根拠などあるはずはない。いつも自分のことを客観的に見ている自分がいて、その自分は、かなり贔屓目に見ていることが分かる。贔屓目に見ていると、間違っても悪い性格には感じないようにしようとするに違いない。
客観的に自分を見るということは、贔屓目に見ることの言い訳のようだ。言い訳と、贔屓目に見ることとでは、相乗効果があるようだ。贔屓目に見ていると、自分が言い訳をしていることを忘れさせてくれる。逆に、言い訳をしていると、贔屓目に見ているのを、他人に分かってしまうが、言い訳をしているようには、思われないので、下手をすると、いい方向に見えてしまうこともあるだろう。
どちらにしても、負の要素を掛けあわせれば、正になるということなのかも知れない。
彼女の本質は、頑固なのではないかと、弘樹は思った。
「女性が頑固であれば、救いようがない」
と、言っていた奴がいたが、負の要素が掛け合わさって正の要素を含んでくるという考え方を正しいとするならば、彼女の頑固さには、可愛げが見いだせるのではないかと思えた。
ゆっくりと考えて頑固なのであれば、それは本当に真実なのかも知れない。
一般的なことすべてが正しいなどということは、決して言えることではない。中には理不尽なこともたくさんある。頑固なことが必ずしもいいというわけではないが、流されないことが真実だと思うことが強さを呼ぶ。
「頑固は強さの象徴である」
と、言っていた人がいたが、確かにその通りだろう。
頑固な人は、自分のことを頑固だとは思っていない。強いと思っているはずだ。それも言葉の違いは紙一重で、本人が感じていることと、まわりが感じていることは、さほど違いはない。ただ、客観的に自分を見ているか、あるいは、まわりからの目で見ているかの違いだけではないだろうか。
彼女を見ていると、自分に強さというものが欠けていたことを思い出させた。客観的に見て、中途半端な性格に見える自分を見出したのは、彼女の雰囲気からだった。もっとも、このことに気付くまでには、しばらく付き合う必要があったからで、彼女と付き合ってみたいと思ったのは、意外と早い時期だったのは覚えているが、この時だったというのを思い出すまでにかなりの時間が掛かった。
釣りに出かけた時の彼女の目は、好奇に満ちていた。
弘樹を見る目もそうだったし、釣り糸の先を見る目も、横からだったが、ハッキリ輝いているのが見えた。彼女は横から見ていても表情が分かるのではないかと思うほどで、今までに横顔だけでそんな判断をした人がいたような気がしたが、思い出せなかった。その時は、それだけ彼女に対して集中していたのであろうし、目が離せない相手であると、感じていた証拠であった。
彼女は、弘樹に見覚えがあると言った。もし見覚えがあったとすれば、それはいつのことだったのだろう。
当の弘樹には見覚えはない。ただ、彼女が見たと言っているのであれば、その通りなのだろう。それだけ人の顔を覚えることが苦手であることを思い知らされた弘樹だった。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次