「発展性のない」真実
と、彼女がそう言ったが、それはお互い様である。同じように暗いところに一人佇んでいると思ったところに、もう一人いた。しかも、弘樹がここに来て、しばし経つのに、その間に誰かが来た気配を感じなかったということは、彼女はそれ以前からいたことになる。ということは、おたがいに、かなりの間、誰もいないと思って、この場所にいたのだ。お互いにその間、相手の気配を感じなかったというのは、考えてみれば、すごいことではないだろうか。
「この場所にこうやって座っていると、何となく落ち着くんですよ」
弘樹は、お互いに気配を感じなかったという疑問には触れず、差し障りのない会話から入った。
「そうですね。私もそうなんですよ、ここにいて座っていると、いろいろなことを考えます。でも、ここだったら、嫌なことを考えなくてもいいんです。私は考え事をしてしまうと、悪い方に考えてしまうくせがあるみたいだからですね」
弘樹も、考え事を始めると、悪い方にばかり考えてしまう。ただ、悪い方に考えてしまうと、考えていたことを忘れてしまうことが多く、それがいいことなのか悪いことなのか考えあぐねていた。そもそも悪いことを考えるから、余計なことを考えないといけないのであって、最初からいいことばかり考えられる性格であれば、どんなによかったかと思うのだ。
「僕もそれは同じですね。ここにいると、確かに嫌なことは考えないで済む。やっぱり、普段と環境が違うと、考えることも変わってくるんでしょうね」
「ここの場合は特に違うようなんです。私にとっては、匂いや湿気が、そう感じさせるのかも知れませんね」
弘樹は、その言葉の意味が分からなかった。同じような感じ方をするこの場所ではあるが、彼女のいうような匂いや湿気に、何かいい方に考えられるようなものがあるとは思えない。匂いを感じることはあっても、それは、温泉の匂いだし、湿気も潮風を若干含んだ湿気なので、むしろ弘樹は苦手な方だった。
「これって、多分男性には分からないことだと思います。直接、女性ホルモンに刺激を与えるもののようですからね」
なるほど、女性ホルモンに刺激を与えるものであれば、男性の弘樹に分かるものではない。
「何か、いいことを感じることができましたか?」
「そうですね。最初、ここで感じたのは、以前にどこかで会ったことがある人に、再会できるようなイメージがあったんですよ。私がここでイメージしたことって、結構当たるんですよ」
「ひょっとして、僕だったりしてですね」
思わず苦笑した。
その苦笑は彼女に対してではなく、自分に対してだ。
普段から発展性がなく、一人でいるという孤独を感じながら生きてきた自分に、誰かと再会というほどの人と知り合ったことなど、あるだろうか。しかも、こんな辺鄙なところで、誰が来ると言うのだろう。弘樹は自分の性格に対して、思わず笑ってしまいたくなっていたのだ。
「何かおかしいですか?」
「あ、いえ。そういうわけではないですよ」
どうやら、途中から、苦笑いが、本当の笑いに変わってしまっていたようだ。
声に出して、笑っている自分を感じると、暗闇に目が慣れてきたはずだったのに、また、真っ暗に感じられるようになってきた。
彼女の方を見てみると、目がどこにあるかというのと、時々口を開いているのか、白い歯が見えているような感じがした。こんなに真っ暗では、本当に気持ち悪いとしか言いようがない。
「温泉はいかがでしたか?」
「私は、ここには何度か来ているので、だいぶ分かってきた気がしますが、言葉では言い表せにくいですが、来るたびに、何か新しい発見ができるような気がして仕方はないんですよ」
「新しい発見ですか?」
「そうですね。僕は釣りを主にしに来るんですけど、釣りをしていると、それ以外のことは頭に入らなくなる。ただ、それだけだったはずなのに、最近では、気が付くと、何かを考えている自分がいるんですよ」
「それはいいことを考えているんですか?」
「いいことだけでしか、考えられなくなっています。何かを考えるということが、こんなに楽しいなんて、初めて感じるようになりました」
「それはいいことですよね。私も、ここに来るようになってから、今まであまり何も考えていなかった自分が不思議に思うくらいになりましたからね」
「あなたも、釣りをするんですか?」
「はい、一度だけ、以前に釣りをしたことがあります。でも、すぐにやめてしまったのですが、今度する時は、ゆっくりとしてみたいと思っていました」
「どうですか? 明日ご一緒しませんか?」
思わず声を掛けてしまったが、彼女が自分の誘いに乗ってくる可能性は、五分五分だと思った。
彼女は少し考えているようだった。
――望み薄かな?
もし、一緒に釣りをする五十パーセントの方であれば、即答だと思っていたので、迷えば迷うほど、可能性が低くなると思えたのだ。
これは、考え方が、減算法に基づいているからではないだろうか。即答なら百だが、少しでも迷いが生じてくると、次第に確率が低くなってくる。元々半々からの確率だと思っていただけに、少しずつ低くなってくると言っても、ないに等しいくらいではないだろうか。
だが、彼女は、顔を上げると、
「いいですね。お付き合いしたいです」
と、喜ばしい答えを返してくれた。
「では、明日は早朝からになりますが、大丈夫ですか?」
「ええ、そろそろ眠たくなってきたと思っていたので、早く起きる分には問題ないと思います。朝食前に一仕事と言ったところでしょうか?」
彼女の気が変わらないうちにと思って、早朝と言った。時間的には都会では宵の口なのに、確かにここにいると、この時間でも眠くなってくる。時間というのは、感覚には勝てないものなのかも知れない。
今から寝ると、四時前には目が覚めそうだ。まだ、真っ暗な状態だが、漁師にとっては仕事始めの時間。
「ゆっくりと、眠れましたか?」
ロビーに現れた彼女の顔が今度はハッキリと分かった。最初は一人だと思っていたので、電気を付けなかったが、今度は相手がくるのが分かっているので、最初から電気をつけておいた。
電気に照らされた顔を見ていると、目鼻立ちもクッキリとした女性で、吸い込まれそうな錯覚を覚える気がした。彼女は思ったよりもしっかりとした目で、弘樹を見つめた。
「どこかでお会いしたこと、ありませんでしたか?」
彼女が、穴が空くほどの視線でこちらを見つめたのは、どこかで見たことのある人だと思ったからなのかも知れない。
「僕には記憶にないんだけど、本当に僕でした?」
「あまり人の顔を覚えるのは得意ではないんですが、確かに会ったことがあるような気がするんです」
「実は、僕も人の顔を覚えるのは、とても苦手なんですよ。特に、この人は覚えていたいなんて思うと余計に意識してしまって、他の人の顔を見ると、その人と印象がダブってしまうんでしょうね。覚えることができないんです」
覚えることができない理由まで、頭の中で用意してしまうと、本当に覚えられなくなってしまった。逃げ道を用意しているようでおかしな話であるが、考えてみれば、確かに、否定的な理由を用意してしまっているのは、それだけ自分に自信がないからである。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次