「発展性のない」真実
潔さという発想は、バッサリと切ってしまった後でも、刃こぼれすることもなく、威風堂々とした姿、それでいて、切られたものに対して、絶えず、空から見守っている暖かさを含んでいることから感じるものだった。
たぶん、他の人は三日月に対し、研ぎ澄まされた本能までは感じるだろうが、その先の暖かさや、刃こぼれまでは感じないだろう。それだけでは潔さを感じることはできない。他の人に感じることができないものを、自分だけが感じることができるというのは、これほどの感情などないというものだ。
弘樹がそろそろ上がろうかと思ったのは、三日月を包んでいた湯気が深くなり、湯気で三日月が見えなくなりそうになったからだった。気持ちよく浸かっている温泉から出ようと思うには、何かきっかけを必要とするのも、弘樹ならでは、なのかも知れない。
それまでは、湯あたりしないようになっていた。最初に湯あたりしたのは、何も分からず、出るきっかけを掴むこともできずにそのままいたからだ。
「気を付けないといけないな」
と思ったが、きっかけが必要であることにいつ気づいたのか分からないが、気を付けようと思った時に、きっかけは訪れてくれたものだった。
満月に委ねられながら、温泉を出ると、一気に身体に溜まった暖かさが、一点に集中してくるようだった。
――下半身が無性に熱い――
この時、血行の良さが、頂点に達したことに気付くと、今が一番性欲の強い時間であることに気が付いた。
――女を抱きたい――
本能は、身体の一点に集中している熱さに耐えられなくなっていく。今までどうやって抑えることができていたのか、その時は分からずに、むずがゆい感覚に、身体が反応しっぱなしで、どうしようもなくなっていた。
「一体、どうしたら?」
と感じたが、とりあえず、脱衣場で座り込んで、収まるのを待つしかなかった。
この瞬間が、身体は一番辛いのかも知れないが、辛さだけで抑えが利かないわけではないように思えた。もし、目の前に女がいたら、理性を抑えることができるのかという疑問と、自分の中で葛藤しているに違いない。
しばらく意識が朦朧としたまま、その場に倒れこむこともなく、正面を見ていたが、実は何も見えていなかった。意識が前にあるだけで、目の前に張られた放射線状の糸は真っ赤で、目が慣れてくると、今度はまわりの光が失せてくるように感じられ、夜なのでただでさえ見えない状態なのに、さらに見えない以上、下手に動かない方がいいに決まっている。
それでも、目が見えるようになると、少し楽になったが、その後に襲ってくるものを考えると、一刻も早く部屋に戻り、薬を飲みたかった。
襲ってくるもの。それは、頭痛だった。
最近では、あまりなくなってきた頭痛だが、環境が変わったりすると、たまに起きることがある。旅行もその一つで、特に成長期などの、中学、高校時代では頻繁に起こっていた。
「そういえば、修学旅行でも、途中で熱を出したっけ」
そう思うと、確かに頭痛がする時は、旅行の時などにあった。ただ、それは自分だけに限ったことではなく、友達も数人、旅行中に体調を崩したりしたものだ。
「きっと、特異体質ではありながら、一人だけではなく、団体の中には数人、そんな体質の人がいるのかも知れないね」
「特異体質というよりも、少数派体質とでも言えばいいのかな?」
と苦笑いをしていたやつがいたが、彼はこの症状が長く続かないことを知っていた。頭痛薬を飲めば楽になれるし、成長しきってしまうと、頭痛もなくなるのだと言っていたが、それは口から出まかせだと思っていた。
だが、実際には口から出まかせではなく、人から聞いた話らしい。だからこそ、信憑性を信じていたようだし、その人も、同じような体質で、やはり誰か先輩から聞いて、長続きしないことを悟ったことで、かなり気が楽になったようだ。
部屋に帰って、頭痛薬を飲んだ。痛みが来る前の頭痛薬なので、痛みが来なかった場合、本当に頭痛薬が効いたのかが分からない。だが、常備薬として持っている薬なので、さほどきついものではない。とりあえず数十分ほど横になっていれば、おのずと結果が出るものだ。
頭痛がしてくるかも知れないと思って、構えていると、スーッと身体の力が抜けてくる。そんな時は、頭痛がしてくることもないはずだ。
「今日は大丈夫だ」
と、思って起き上がった。
起き上がった身体は、一瞬宙に浮いたかのように軽くなった。まるで下りのエレベーターに乗ったかのようである。
身体の中に暖かいものを感じるが、温泉で感じた暖かさとはまた違っている。きっと先ほど飲んだ薬が効いているのではないかと思うのだが、その後に襲ってくるのは、喉の渇きだった。
「ロビーまで行けば、自動販売機があったな」
部屋にあるお茶では、この喉の渇きは補うことはできない。小さめのペットボトルの飲料くらいがなければ、補えないだろう。
スポーツドリンクを買って、少し口に含む。先ほどまで熱かった身体が、スーッと冷えてくるのを感じた。さっきまでは感じなかった汗が滲んでいるのを感じる。少し気持ち悪さもあったが、それでも吹き込んでくる風が、それほど寒いわけではないので、暖かさが、再度こみ上げてきそうなほどであった。
時間的にはまだ午後九時過ぎくらい。都会であれば、まだまだ宵の口と言える時間であるが、ここでは、深夜のような静けさだ。漁村なので、朝が早い。すでに誰もが寝静まっている状態だと思っても、今度は弘樹に睡魔が襲ってこない。こんな時は、夜更かしと決め込んでいるのだが、一人で何をすればいいというのか、薄暗いロビーのソファーに腰かけて、表からかすかにこぼれてくる明かりを感じていると、まるで、人魂でも飛んでいるのではないかと思うほど、薄気味悪いものであった。
薄気味悪い状態ではあるが、座っていると今度は腰を上げる気分になかなかならない。このまま立ち上がることを戸惑っているのだ。
数分は、そこにいただろうか、部屋に帰ってテレビでも見ようと考えたが、寝静まった中で誰もいないと思っていたが、スリッパの音が、規則的な音を立てているのが聞こえた。歩いているにしては、あまりにもゆっくりで、ただ、確実に近づいてきていのが感じられたのだ。
「誰かいるのか?」
思わず声を掛けると、
「……」
一瞬、フッと溜息のようなものが聞こえたかと思うと、そこから、湿気のようなものを感じたのは、その溜息が女性だったからだ。濡れた声は、思ったよりも、静かに広く響いていた。
「脅かして、すまない」
相手からの返事を待っていたが、息遣いが聞こえるだけで、どうやら、声を出すことができないようだ。
それとも、こちらがどういう人間なのか分からないので、次の言葉が出てこないのか、どちらにしても、脅かしてしまったことには、変わりない。
「いいえ、大丈夫ですよ。ただ、こんな暗闇の中に、人がいるなんて、ちょっとビックリしてしまったから」
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次