「発展性のない」真実
世の中、多数が勝つようにできている。公平に見えるが、これほど不公平なことはないだろう。しかも、少数派のことは誰にも分からない。いや、分かろうとしないからで、それは多数が正義だと思わせるような風習や教育の産物と言ってもいいだろう。
「負の産物」
そのために犠牲になる人もいるが、弘樹は、最近まで、それを犠牲だとは思わなかった。すべてが、仕方のないことだと思うことで、自分を納得させてきた。いや、納得させることが自然であり、そうせざるおえない世の中になっているからだ。
弘樹にとって温泉は、自分へのご褒美であり、癒しであった。
意識していないとはいえ、世の中の理不尽は嫌というほど味わっている。発展性のないことが、自分への理不尽を引き寄せていることにも気付かなかった。
理不尽なことに対しては、それなりにストレスも、辛さもため込んでいた。発散させなければならないが、その術を知らない。今まで、その時々で発散させてきたつもりだったが、時には人を巻き込んで、後味の悪い思いをしたこともあった。その都度、友達を失うことにもなり、開き直ることでしか、ストレスを発散できなかった。それが若かりし頃の自分だったと思うと、
「人生をやり直したいと言っている人もいるが、俺はそんなことは思わない」
と、感じるのだ。
根本が治らないのに、一体どうしてやり直せるというのだ。しかも、やり直す地点が重要なのに、間違えると、却って、もっと悪い結果が待っているかも知れない。それを考えずに、人生をやり直したいなどと、軽々しく言える連中は、今の自分をおおむね満足している連中ではないだろうか。どっちに転んでも、人生悪くなることはないという考えである。羨ましいが、自分にはそんな考えを持つことはできないと感じる弘樹であった、
温泉の効用にはいろいろあるが、最近では、効用についてはあまり気にしなくなった。どんな効用であっても、自分の本当の意味での効用は、探しえないはずだからである。
弘樹が、寂しさを感じるようになるとしたら、どんな時であろうか?
寂しさが、心の奥から滲みだしてくるものなのか、それとも、表から与えられるものなのかも分からない。与えられるという言い方もおかしいが、味わったことのない弘樹にとっては、味わえるものがどんなものか分からないのに、与えられるものなのか、押し付けられるものなのかの判断もつかなかった。
ただ、寂しさは、そんな一刀両断に測れるものではないのではないかとも思っている。身体の中から滲みだすものだという思いの方が最初は強かった。なぜなら、人が寂しそうにしているのは分かるのに、自分が寂しさから辛さを感じることがないからだ。寂しさという感覚が他人に見える寂しさと、自分の中に感じる寂しさでは差がある。きっと、自分の中から滲み出てくるものの中に、何か足りないものがあるからだろう。
だが、最近では、まわりからの影響が、寂しさには含まれていることに気が付いた。それは、自分が寂しさを甘んじて受け入れようと感じた時、自分に対して興味を持ってくれた人間以外をまったく排除してしまったことから、まわりに対して自分を閉ざしてしまったことで、分からなくなったのだろう、
確かに今までに自分に対して興味を持ってくれた人もいた。珍しいものが好きな人というのは中にはいるもので、ただの興味本位で近づいてきた人も少なくなかった。だが、閉ざしている自分の気持ちをこじ開けるほどの力があるわけでもなく、ただの興味本位の人間に、そこまでしようと思う人間がいるはずもない。
結局は、
「あの人はただの変わり者」
というレッテルを勝手に貼って、弘樹も、それに対して別に文句をいうこともない。
「またか」
と、思って、それだけのことだった。
近づいてくる人を無下に遠ざけることはしない。だから、最初の印象は、相手から見て、それほど悪いものではないはずだ。ただ、興味本位の軽い気持ちで、閉ざした心を見てしまうと、そこから先の進展はないのだ。
相手があることに対しての発展性のなさも、弘樹にとっては、今始まったことではないのだった。
ただ、釣りを始めてからの弘樹の中で、少しずつ変わっていったものがある。それは、余裕という言葉で言い表すことができるだろう。
「釣りというのは、気の短い人の方が似合うんだ」
という言葉は、今から思えば、弘樹にとって、目からウロコが落ちた瞬間だった。
釣りをすることで、温泉宿に一人で泊まる口実もできる。弘樹にとって、温泉宿に一人で泊まることに理由や口実などいらないが、
「それでも、何か熱中できるものと一緒に温泉に浸かることができれば最高ではないか」
と思うようになったことが、余裕を持てるようになった一番最初のきっかけだったのだと思っている。
おかげで今は、温泉の常宿が、だいぶ増えた。それぞれに趣きがあるが、今回泊まりに来ている温泉が、一番多い。
「なぜ?」
と聞かれると、ハッキリと答えることはできないが、何か予感めいたものがあるというのが本音だった。今まで考えたことのない発展性を感じるのであって、発展性は妄想から繋がっているのだが、妄想が現実のものになりそうな気分など、今までにはなかった。それは、発想が割り切っているからだと言えなくもないが、それだけではないだろう。
いろいろなことを考えながら、温泉に浸かることも最近になってからだった。
最初は温泉に浸かっても、何も頭の中に思い浮かぶことはなかった。ただ。普段から何か分からないが、モヤモヤしたものが頭の中にあることだけは自覚していたのに、それがハッキリしないことで、ストレスが溜まっていた原因だったのかも知れない。温泉に入っても、そのモヤモヤが解消されるわけではなく、むしろ、目の前に湧き上がる真っ白い湯気に集中しているうちに、のぼせてしまいそうになることもあったくらいだ。
それでも、のぼせずにいられたのは、自分の中で、制御できるものがあるからだ。温泉に来ての最初の収穫は、制御できるものを自分の中で持っていることを発見したことだった。
その日の月は、三日月だったが、弘樹は三日月が好きだった。満月も悪くはないが、三日月に研ぎ澄まされた潔さを感じる。真ん中で切って、左右対称な形も好きだし、何よりも、潔さというキーワードが、三日月には感じられるのだ。
満月でもなく、半月でもない。鋭利な部分を持っていながら、丸みを帯びた部分に大きさを感じる。見た目よりも大きく感じると言った方がいい。
さらにしなりを帯びたものには、さらなる隠された力を感じるのだ。弓にしてもしなりがあるからこそ、爆発的な力が出るのである。太古から、弓矢を武器に徴用し、今でも、武器にあらずとも、スポーツとして色褪せることなく続いてきている。時代がいかに変わろうとも、しなりを持ったものは、未来永劫へとその力を保ち続けることができるのだと弘樹は感じていた。
三日月に、湯気が掛かって、湿気を感じるが、湿気によってさらに研ぎ澄まされた三日月は、潔さが倍増する。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次