「発展性のない」真実
短気な人は、すぐにイライラする。それは、考えがまとまらなかったりして、先に進まないことに苛立ちを覚えるからだ。だが、頑固な人は、自分の意見を譲ろうとしない。ある意味で、逆の性格だと言ってもいいだろう。それを混同してしまうから、
「短気な人は釣りに向いている」
という言葉を聞いて、疑問に感じるのだ。じっとして動かない状態を、いかに進展させるかという発展性を考えられる短気な人だからこそ、釣りに向いているのだ。
釣り糸を垂れていると、ついつい釣り糸や浮きの動きに気を取られてしまう。波の動きを先に見ていないと、酔ってしまう可能性もある。だが、弘樹は、潮風に酔うことはあっても、波を見ていて酔うことはない。船に乗っても酔ったことなど今までになく、
「どうして、潮風に酔うんだろう?」
と、不思議で仕方がなかった。
単純に、肌に合わないだけなのだが、それだけではないと思うのは、風の生ぬるさにあるのかも知れない。
生ぬるい風が吹き込んでくる中で、釣りをしていると、少し離れたところから、自分の釣りを眺めている人がいた。
一人の老人がこっちをずっと見ていたが、気が付くといなくなっていた。どこかで見たような気がしたが、どこにでもいそうな人で、しかも、この防波堤に、妙に似合う感じの人だった。
麦わら帽子を目深にかぶっているので、顔は見えなかったが、少し曲がった腰を痛々しそうにしながら、うろうろしているかと思ったら、いなくなっていたのだ。防波堤によく似合っているように思えたことが、どこかで見たことがあると思わせたのかも知れない。
顔は見えなかったが、老人は人が好さそうに見えた。口元が歪んでいるように見えたのは、気のせいかも知れない。老人を意識していると、釣り糸に集中していなかった自分を感じさせなかったが、しばらくすると、指に微妙な力が入り、次の瞬間、思い切り引っ張られるのを感じた。
「来たか?」
その日は、最初から、あまり調子は良くなさそうに感じられた。釣りに大切な潮の流れも、今までの経験から考えれば、あまりよくなさそうに感じたからだ。それでも、ふとしたきっかけから急に釣れ始めることもある。だからこそ、釣りというのは面白い。やめられないと思うのは、そこにあるからだろう。
老人から、釣りの方に意識を移している間に老人は立ち去っていた。釣りに意識が向く寸前、老人が微笑んだような気がしたのは、まるで釣れ始めることが分かったかのようで、
まるで神通力でもあるのではないかと思えるほどだった。
人間の意識というのは現金なもので、バカみたいに釣れ始めると、今度は、さっきの老人のことが頭から離れてしまった。釣りに集中していると、他に意識がいかない。元々が、一つのことに集中していると、他に意識がいかないようにできているのが、弘樹の性格だった。自分では悪い性格だとは思っていない。集中力を分散させてしまって、結局どっちも中途半端になるくらいなら、どちらかに集中している方がマシだと思うからだった。
老人を見ていると、まるで自分の性格を読まれているようで、少し面白くない気分にもなっていたが、それも、なかなか釣れないストレスを、老人にぶつけてしまっていたからだった。釣れ始めると、老人のことを忘れてしまったのは、そういう心理的な動きが影響していたからに違いない。
「なかなか釣れませんね」
少し離れたところで釣っていた人が、途中休憩したようで、話しかけてきたのは、老人が現れる少し前だった。
「そうですね。今日は潮が悪いんでしょうか?」
気軽に弘樹も答えていたが、精神的には釣れないことにストレスがあったので、話しかけられたのは、ある意味気分転換になるので、面白くないとも思わなかった。
「私は、週に何度か、ここで釣りをするんですが、釣れる日と釣れない日の比率がまちまちでしてね、釣れない時は、まったくなんですよ」
「それは私も同じでしょうね。でも、釣れない日というのは、意外と最初から分かっているような気がして、今日も実はそんな気がしていたんですよ」
「ただ、それは錯覚ではないかって、最近は思うようになったんですけどね」
「どうしてですか?」
「釣れないと最初から思っていたというのは、まるで自分に対しての言い訳のような気がしてですね。というのは、釣れなかった時というのって、結構ショックでしょう? それは自分に対して考えが甘かったことへの戒めの気持ちは、自分に対して向けるものですよね。それを少しでも緩和させようとすると、最初から釣れないと思ったという感覚を持っていれば、予知能力があったことで、自分に知らなかった力が備わっていることを相手、つまりは自分の自慢しているような感じですね。そうでもしないと、どちらも情けない自分でしかないからですね」
どう説明していいのか分かっていないのか、何とか言葉を繋いで説明してくれたが、言いたいことは分かった気がする。もっとも自分に同じことを説明しろと言われても、同じような言い方にしかならないだろう。それでも説明しないと気が済まないのは、それこそ、最初から分かっていたという感覚に似ているのかも知れない。
その人は、しばらく弘樹の釣りの様子を見ていたかと思うと、
「お邪魔しました」
と言って、元の場所に戻っていった。また、釣り糸を垂れ、同じように糸の先を眺めていたが、先ほど聞いた話を思いながら、釣りをしているのではないかと思えてならなかった。見た目は何も考えていないようだが、こうやって考えながら釣りをしている弘樹も、まわりから見れば、ただ釣り糸を垂らしながら、何も考えていないように見えているのかも知れない。
よほど、その日は集中できないような精神状態なのか、後ろの老人に気が付いてからは、何も考えることなく、釣り糸を垂らすことが難しくなっていた。
それを断ち切ったのが、指に掛かった待望の獲物だったのだが、もし、このまま獲物もなく、最初に考えた通り、まったく釣れていなかったら、考えることは、いつを引き際にしようかということであろう。
釣れている時は、引き際の難しさは当然のごとく分かるのだが、釣れていない時も、
「もう少し待っていれば釣れるようになるかも」
と思い、なかなかその場から立ち去ることができなくなってしまうかも知れない。
どちらにしても、立ち去れない状況であるから、離れられない中で、いかに自分の精神状態を保てるかというのが難しくなる。
特に気の短い人は難しいだろう。
気の短い人間の方が、立ち去ることは難しいかも知れない。
「後で後悔したくない」
という気持ちが先に立ち、急いて考えることが、結論になかなか行きつかない。結局その場を離れることができなくなってしまうのだ。
「釣りは短気な人ほど似合っている」
というのも、そういうところから来ている発想なのではないだろうか。
釣りに勤しむようになってから、確かに今までとは、少し考えが変わってきた。それでも相変わらず、発展性のない毎日を送っているのは、釣りと、普段の生活を、まったく別物として自分が考えているからである。
作品名:「発展性のない」真実 作家名:森本晃次