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短編集51(過去作品

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 パートの話を持ってきたのは、近所の主婦だった。美紀はその話を最初は断っていたが、さすがに体型を気にしてか、気分転換せざる終えない立場に追い込まれたことに気付いたようだ。
 家庭が充実してくると、仕事に集中できるというもの。すべてがいい方向に向いてきた予感がしていたが、現実味を帯びてくると、
――何が幸いしたのだろう――
 と考えるようになった。
 そこで考えたのはタバコだった。それまで吸ったこともなかったタバコを吸うようになって精神的に余裕が生まれ、初心に返ることができる。元々抱えていたストレスの原因が何であったか分からなくなるほど、充実した毎日を送ることができる。
 毎日があっという間に過ぎていくのも分かるというものである。
 まるで夢を見ているようだというのも、無理のない話で、バイオリズムの周期がよくなったと思うこともあった。ジンクスを信じる方ではなかったが、朝玄関から出る時の足を右足からと決めるなど、今までになかった時間を感じていた。
 タバコを吸っている時間はいろいろなころを考えている。そんな時間をタバコが吸えない時間に思い起こしていると、長く感じられる。タバコを吸っている時間の感覚が麻痺していて、まるで夢を見ているように思える時間であるとするならば、実際の夢とは逆の感覚である。したがって、夢でも何でもなく、紛れもない現実の世界で考えて生まれてきた発想なのだ。
 タバコを吸っている時間が現実で、タバコを吸っていない時間が夢ではないかと考えるようになると、それまで気付かなかったまわりのことにも気付くようになってきた。
 タバコを吸い始めると、女性の目を引くようになっていた。最初の頃は自覚がなかったが、女性の視線の熱さを感じるようになる。
 タバコを吸い始めて、今までは立ち寄ったことのないところに立ち寄るようになる。居酒屋やスナックなどのような喫煙場所と禁煙場所とが明確に区切られていないところに行くことなどなかった。
 いくら上司に誘われても、あまりアルコールも強くない渡辺は、頑なに拒否していた。
 もっとも禁煙者に無理強いをするわけにも行かないので、そのあたりは大目に見てくれていたはずなのだが、
「あまり付き合いがよくない」
 そんなレッテルを貼られていたに違いない。
 だが、付き合ってみると、なかなかスナックなども楽しいものだった。仕事の話をすることもあるが、割り切っているので、最初に仕事の話を済ませてから、後は楽しい時間を過ごそうとする。プロジェクトの上司や同僚と呑みに行くことがあったが、仕事の話以外では、あまり口を開くことのない渡辺は、店の女の子からいろいろ聞かれた。
「ご趣味は?」
「結婚なさっているのね。残念だわ」
 社交辞令には違いないが、明らかに他の連中に対しての雰囲気とは違っている。店の中でも無口な方の女の子が渡辺は気になっていた。積極的に話しかけてくる女の子たちにくらべてかなり控えめで、それでいて時々目が合っては、恥ずかしそうに目を逸らしている。
 まるで、恋愛経験のない女の子のようではないか。そんな女性を今まで気にしたことがなかった自分にとっても新鮮な気持ちである。
 名前を郁子という。
 スナックでの名前なので、本名かどうか分からない。
「郁子ちゃんは、いつも一人で控えめなのよ。一番最近に入ってきたので、まだ雰囲気に慣れていないのかも知れないわね」
 女性はさすがに敏感である。渡辺が郁子を気にしているのに気付いた先輩ホステスが、さっそく渡辺に耳打ちする。
 自分たちが郁子に負けるはずがないという自負があるのか、実際に今まで耳打ちすることで効果があったのか、余計なことを耳打ちしたのではないかと渡辺は感じた。
 だが、渡辺はそれを聞くと、ますます郁子に興味を持ってしまった。その日はさすがに他の人の手前、あまり郁子に話を聞くことをしなかったが、気になっていたのは間違いなく、その視線を郁子自身が感じていることも分かっていた。
 渡辺は、分かりやすい性格である。気になる人がいれば、視線は自然とその人に向いていて、しかもそれが無意識なので、後で他人に指摘されて、照れ笑いをしなければならなくなったことも何度もあった。
 若い頃であれば、純情だということで許されるが、三十歳近くになるとどうなのだろう? 恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまうかも知れない。それはそれでさらに恥ずかしいことだ。
 だが、タバコを吸い始めて、そんな感覚はなくなった。三十歳を過ぎても照れ笑いでごまかせて、しかも純情だということを表に出してウリにすればいいのではないかと思うようになっていた。
――タバコを吸っている時間が現実で、吸わない時間が夢のようだ――
 という感覚が、そのように感じさせるのかも知れない。
 最初は皆で出かけてスナックだったが、次からは一人で出かけるようになった。お目当ては郁子なのだが、なかなか郁子と二人きりになることができない。
 いつもほろ酔い気分で帰るのだが、そんな時、郁子からメモを貰った。
「今度、お休みの時、会社の近くまで行きますので、よろしければお茶でもご一緒いただければと存じます」
 と書かれていた。
 願ったり叶ったり、後ろを振り向いて郁子へ向けた視線は、さぞかし満面の笑みを浮かべていたことだろう。すると今までに見たこともないほどの満面の笑みを郁子も浮かべている。それはあどけなさの残る顔に、これ以上ないというほどの明るさがまわりにも影響しているかのようだった。さぞかし明るく感じたことだろう。
 今まで一目惚れなどしたことがなかったはずの渡辺が、最初から意識した女性。それが郁子だった。しかも郁子もその気のようだ。
――これもタバコの影響だろうか――
 もてているという感覚はタバコを吸い始めた頃からあった。今までタバコを吸っている人を見ると、見苦しく思えていたものが、自分が吸っている姿を想像すると、見苦しさを感じない。他の人が吸っている姿はそれでも相変わらず見苦しく感じられた。
――他人に厳しく、自分に甘い――
 本当は一番情けない性格なのだろうが、そう思えてならなかった。
 郁子との待ち合わせはスムーズだった。
 会社の近くなので、誰かに会わないとも限らなかったが、別にお茶を飲むくらいであれば、誰に見られても関係はない。
 会社の近くの公園で待ち合わせをしたのだが、公園などに足を踏み入れるのは何年ぶりであろうか。学生時代ぶりなので、十年近くは経っているに違いない。
 しかし、一たび公園に足を踏み入れると、それほど久しぶりという感じがしない。講演のベンチに座ってまわりを見渡すと、最初に感じた広さよりもさらに広く感じる。目線が低くなったのだから当然なのだろうが、小さい頃に感じた目線であることに違和感を感じなかったからかも知れない。
 仕事が終わる時間は、まだ西日が残っていた。
 公園のある場所は、ビル群から離れているので、西日が当たっている。じっとしているだけでも汗ばむ季節、気だるさを感じるのは、少年時代を思い出しているからだろう。
 走り回るだけで砂埃が上がっている。西日に照らされて煙たく見えるのは、身体が疲れていたからに違いない。
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次