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短編集51(過去作品

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 携帯電話を平気で掛けているやつがいる。
「他のお客様のご迷惑になりますので、マナーモードにしていただくか、電源をお切りいただき、通話はご遠慮ください」
 というアナウンスを聞いていて、無視している。
 ご遠慮という言葉にそれほどの拘束力を感じないことからマナーを守らない。しかも見回りの車掌すら見て見ぬふりをしていることが多い。そんな状態が許せない。
 もちろん、携帯電話で通話している連中は論外で、注意しない車掌にしても、例外ではない。せっかく車内アナウンスで警告しているのに、見回りに来て見て見ぬふりをするのでは、職務怠慢ではないか。そう感じるのは渡辺だけなのだろうか。
 他の乗客にしても、誰も注意しようとしない。それも次第に許せなくなる。モラルが崩れると、まわりすべてが同罪にさえ見えてくる。それほど一人の行為が自分の中で起こさせるジレンマに、耐えられないものを感じるのだった。
 タバコにしてもそうである。
 喫煙者が元々嫌いだったことから、タバコに興味を持つことはなかった。
 父親が吸っている時はそれほど意識をしていなかったのだが、吸わなくなって、家からタバコの匂いが消えると、今度は匂いが嫌いになった。
 表でタバコを吸っている人が恰好悪く見えてきて、悪人にさえ見えてくる。まだ、社会的にも喫煙場所がたくさんあって、それが次第に減ってきている時など、喫煙者のマナーは最悪に思えた。実際は一部の心ない者たちの仕業なのだろうが、吸ってはいけない場所で平気で吸う。当然灰皿も配置されていないので、そのまま道に捨てる。
 今では信じられないが、中には駅のホームで吸っていて、そのままホームの外にポイ捨てしていたサラリーマンもいた。
――歩行者がいたら、どうするんだ――
 と考えたが、幸い事故にならなかっただけで、よかったのだろう。ただ、全国的にはそういう事故はあったのかも知れない。今でもその時にホームからポイ捨てした男がのうのうとタバコを吸いながら生活しているのだと思うと許せない。
 そんな気持ちの強い渡辺が、まさかタバコを吸うようになるなど、一番ビックリしているのは、渡辺本人かも知れない。
 だが、意外と違和感なくタバコを吸い始めていた。吹かした時に、最初は咽たが、それも最初だけ、後は普通に吸うようになった。
――いつか止めてやる――
 この感覚をいつでも持ち続けていれば、止められると思っていた。
「渡辺くん、君はいつからタバコを?」
 プロジェクト会議の休憩時間、喫煙室に現れた渡辺を見て上司は皆不思議そうな顔で見ていた。
「以前から吸うこともありましたが、会社では吸っていなかっただけですね」
 本当は最初から吸っていなかったと本当のことを言うのとどちらがいいのか迷ったが、いきなり吸い始めるには三十歳近い年齢で恥ずかしい。
「ストレスの溜まる仕事ではあるからね。まあ、程ほどにしていくことだね」
 自分でも吸っていながら、程ほどにすればいいというのも面白い発想だ。だが、タバコを吸っていることで害があるのは間違いのないことで、吸っている人の中で、害を十分に理解している人がどれほどいるのかということにも興味があった。
 渡辺は、吸い始める前には、相当な害があると思っていたが、どうせ吸い始めることはないと思っていたので、それがどれほどのものかを調べたことなどなかった。
 吸い始めてから、今度は調べるのが怖くなる。そんなこともあって、
――そのうちに止めるさ――
 という軽い気持ちから、時々
――いつか止めてやる――
 と思うようになっていた。
 タバコを吸うようになってから、しばらくの間、気持ちを落ち着けることばかりを考えていた。精神的なリラックスを求めて吸い始めたつもりでいたが、吸っているうちに、何のために吸い始めたのかが曖昧になってきたのだ。
 それでもよかった。時間があっという間に過ぎていくことで、毎日が充実しているように感じられるのはいいことだった。同じことをしていても、前の日よりもどこかが違うと感じることができるようになったのは正解である。
 それに伴って、仕事もうまく回転するようになっていた。
 係長に昇進し、それに伴い、第一線の仕事を若手にさせるという、管理者の立場に変わっていくことに最初は抵抗があった。
 会社に入った頃は、上司の仕事についてなど何も分からず、
――命令するだけで何もしないのに、よくあれだけの仕事があるな――
 机に座って仕事に集中している上司を見ていて、不思議に思っていた。
 しかし、自分がその立場に近づくと、まず何から手をつけていいか分からない。
 元々の係長は課長へと昇進し、課長の仕事が待っている。係長としての仕事のまず一歩は、スケジュール管理であった。
 個々のスケジュール管理もさることながら、業務のプロセスから人の管理まで、いわゆる管理職に近い。
 自分がしていた仕事を引き継いでも、
――自分がした方が早いに決まっている――
 という思いがストレスに変わり、自分の仕事だけではなくプロジェクトの仕事まであることから、タバコ依存になってしまっていた。
 タバコを吸うようになって、精神的に落ち着いてきたことと、喫煙室でプロジェクトメンバーの会話を見ていることで、誰が何を考えているかが分かるようになっていった。それに伴い、上司が望んでいることを考えると、自分がアイデアを出すことも可能だと思えてきた。
 アイデアは、第一線にいる頃から暖めていたものがたくさんある。
 仕事への前向きな態度は、余裕が出てくるとアイデアへの転換にもかかわってくる。
――ああすればいい、こうすればいい――
 アイデアは豊富だった。
 しかも渡辺はメモ魔だった。メモを取ることでアイデアを搾り出すことができ、忘れないことと共に、考えていた時の精神状態にいつでも戻れていた。それだけ新鮮に仕事に向かえたのである。
「渡辺君、その考えはなかなかいいね。さっそくまとめてもらおうか」
 プロジェクトリーダーである部長の一声で、仕事の段取りが決まる。逆に言えば、部長に認められれば、プロジェクトでの発言権や、行動が認められる。いつにも増して渡辺は張り切っていた。
 家に帰って、
「美紀、今度プロジェクトで俺の案が認められそうなんだ」
「それはおめでとう。私も最近、パートを始めて、仕事の大変さが分かってきたところなのよ。がんばってね」
 子供を実家に預けて、美紀は喫茶店のウエイトレスの仕事を始めた。気分転換になっているようで、疲れていても、以前よりも張り切って家事をしているように思えた。
 それまでは、なかなか身体を動かすことを嫌っていたのだ。
 出産までは体調や体型に気を遣っていたが、子供が生まれて、育児の大変さにかまけて、自分を省みることのなかったのは、言い訳かも知れない。
 まわりも余計な気を遣って、甘やかしてきたところも多分にあることだろう。それは、育児を始めてからの美紀の体型を見れば分かる。出産後痩せていたのが、見る見るうちに太ってきた。育児に神経をすり減らしているはずなのに、それ以上に、自分の生活がだらけてしまっていたのだ。
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次