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短編集51(過去作品

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 たいてい二人でいくのだが、吾郎は酒の席での話題も豊富だし、相手が話題を持ってくれば聞き上手になれる。誘う方にとってみてもありがいたいことには違いないはずである。話題は他愛もないことから仕事のことまでその時によって違うが、話題の多い時ほど話に夢中になり、酒はあまり進まない。それが却ってちょうどよい酔いを誘うのであろう。
 吾郎が初めて一人で呑みに行ったのは、食堂街の奥にあるスナックだった。
 あれだけ気になっていなかったはずのスナックだったのに寄ってみる気になったのは、公園のベンチに佇んでいる時に子供の頃を思い出し、その時に感じた自分の求めているものが「陸の孤島」のようなところであることを意識したからかも知れない。
 仕事が終わってからの食堂街は閑散としていた。中には準備中の札が立てられ、夜になると飲み屋に変身する店もあるようだが、そのほとんどは閉まっている。
――昼休みがかきいれ時なんだ――
 と感じた。昼と夜でまったく違う佇まいを見せる通路であった。
 暗い部分と明るい部分がくっきりと分かれている。それも、昼と夜とでまったく違う様相を呈している。そう考えると、小学生の頃に探検した洋館に感じた足元が決して渇くことのないドロドロした粘土質を思い出した。どんなに晴れていても変わらないだろうことを知りもしないのに、確信していたことをである。まるで雪が溶けたような状態である。
――こんなになる前は、雪景色のように綺麗なものだったのではあるまいか――
 それも勝手な想像のはずなのに、確信めいていたことである。
 この通路も昼間とまったく違う佇まいを見せていたにも関わらず、想像できないものではなかった。
――きっとこんな佇まい――
 そこに確信めいたものがあったように思えてならない。
 階段を下りてまず目に入るのは暗い通路だった。奥の方にはスナックの看板が怪しく光っているのだが、さすがに階段のところまでその怪しさを醸し出すことはできない。
 まさに日が当たっていてもドロドロとした粘土質が渇くことのない道に似ているように思えた。明かりの消えた食堂が太陽を何とか遮ろうとしている様は洋館に聳えていた深緑の森を思わせる。
 だが、履いている革靴の音は、シーンと静まりかえった通路に渇いた音しか残さない。渇いているのとずっと湿気を帯びているのとでは何が違うか、その時にハッキリと分かったような気がした。
――渇いた空気は音を反響させるが、湿気たところでは音を吸収して篭ってしまうのであろう――
 と感じさせる。まさしくその通りだった。
 当たり前のことを今さらながらに感じるが、新鮮な感動を覚えるとはこのことを言うのだろう。忘れていた感動を思い出したように思えた。
 渇いた空気は冷たさを含んでいた。革靴の音は、まるで氷の上を歩いているように思わせるほど、寒さというよりも冷たさを感じさせ、どこか分からないが、身体全体というよりも、身体の一部だけが無性に冷たくなってしまっているかのように感じた。
 冷たさは、感覚を麻痺させる。まるで自分の身体ではないような錯覚を覚えさせるのだろうが、不思議なことに、身体のどこについているものであっても、それほど変わりないように思えてくる。
「カツッカツッ」
 渇いた音だけが響いているが、音が木霊している。自分の後ろに誰かがいてついてきているのではないかと思うほどだが、それも暗くて影が映るわけではないので、却って不気味だ。後ろを振り返ることもなくスナックに導かれるように前だけを向いて歩いていた。迷うこともなく一軒のスナックに顔を出す。後ろを振り返るのが怖いからだったのかも知れない。
 なぜ、急にそのスナックに行ってみようと思ったのかというと、公園で佇んでいた女性が気になって後をつけたことがあった。まるでストーカーのような気分になっている自分に情けなさを感じたが、その時になぜそんな心境になったのか分からない。強いて言えばその時の彼女の後姿が寂しそうだったとしか表現のしようがない。寂しく見えただけで人の後をつけるようなそんな姑息な人間ではないと思っていたのだが、もしその時に後ろからついていかなければ、二度と彼女を見ることはないように思えたからだ。
 ビルの地下に降りていき、スナックに入る彼女を見たが、その日は中に入るまではしなかった。一晩が明けて、朝目を覚ました時に、前日に見た暗い通路の奥に消えていく女性のイメージが浮かんできたからだった。
 それから数日間、公園のベンチに佇むことはしなかった。公園に佇んでいると彼女のことを思い出し、またあの食堂街へ向ってしまうのではないかと思ったからだ。ストーカーのような行為をしてしまった自分への戒めと、自分の中にある自己嫌悪に苛まれていたからかも知れない。
 店に入ってまず目に入ってきたのは、小さなカウンターの奥にグラスを飾ってある棚があって、そこが蛍光灯で明るかった。グラスが光ってさまざまな色を醸し出しているように見えたのは、棚の奥にある壁が紫色に光っていたからである。
 紫色というのは、明るいところでは目立たないが、暗いところで、しかもグラスのように反射するものを置いているところでは、いろいろな色彩に変化できるものであることを初めて知った。まさに光の奏でるコントラストの素晴らしさを目の当たりにして、しばし目が釘付けになっていた。
「いらっしゃいませ」
 蚊の鳴くような小さな声がしたかと思うと、奥でグラスを拭いている女の子がいた。その正面には、一人背筋を伸ばしてグラスに口をつけている女性がいたが、それがまさしく公園で見かけた彼女だった。
 正面から見た姿と後姿では、やはりかなり雰囲気が違う。ただ、どこか寂しそうな雰囲気は醸し出されていて、グラスから口を離すと、手に持ったグラスをゆっくり回すようにして、ウイスキーの入っている表面が揺れるのをじっと見つめていた。
 吾郎は無言でカウンターの中央に腰掛けた。一番奥に座っている彼女とは遠くもなく近くもない距離である。客がいない時にそれぞれが座る距離としてはちょうどいいのではないだろうか。
 二人とも、同じくらいの歳に見える。もう一つ言えば、吾郎も近い年齢ではないだろうか。女性同士が一緒にいれば、同じくらいの年齢かどうか想像はつくが、自分と比較するとなると、少し難しい。だが、そう感じた理由として、どこかで見たような女性だと後姿を見た時に感じたからだった。
「それでね、その時の合言葉が冒険だったらしいの」
 カウンターに座っている女性が吾郎を無視して話している。無視しているというのは語弊がある。気に派しているのだが、会話が途中だったようで、逆に吾郎の来店が話の腰を折ってしまったのかも知れない。
 吾郎も入って早々話題があるわけでもない。何しろ初めて入る店であるし、彼女に興味があったので、入りましたなどと口が裂けても言えるはずはない。
 それにしてもその日の話題のキーワードの一つが「冒険」というのは、引っ掛かりがある。小学生の頃に出かけていった西洋屋敷でのことがまるで昨日のことのように思い出される。
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次