短編集51(過去作品
悪夢の井戸
悪夢の井戸
あれから何年が経ったのだろう。粘土質の地面は絶えずドロドロで、コケが生えている。人の目に触れることもなくひっそりと佇んでいるのは、一体何のためなのだろう。それを知っている人はこの世に数人しかいない。それもその存在意義を知ってのことなのか、本人たちにも分からない。
いつ頃からそこにあるのか、そして何人の人々にその存在を知られていたのか、深く考える人は今では一人しかいない。その奥は一体どうなっているのだろう……。
赤松吾郎は最近疲れ気味なのだが、心地よい疲れだった。仕事が充実していて、それなりに感じる疲れは、却って心地よいものであることを最近知った。それでも、身体が自分であって自分でないように思えることがある。不思議な感覚だったが、以前にも感じた思いであって、吾郎にしてみれば普通の感覚なのかも知れない。
会社内ではいくつかのプロジェクトが存在し、メンバーに選ばれることはあっても、ほとんどが雑用に近かった。入社してから三年が経ったが、そろそろ雑用から脱皮する時期でもあった。
「雑用が楽だよな」
という先輩もいたが、目を見ると、生き生きしているのが分かる。忙しくなってくるのは事実のようで、吾郎が帰る頃、まだプロジェクトメンバーはパソコンに向ってデータの打ち込みをしている最中である。
真剣な眼差しを見ていると後ろ髪を引かれる思いで帰宅の途につくのだが、することもなくただいるだけが苦痛なのは先輩も分かっているようで、
「仕事が終わればさっさと帰ってしまった方がいいぞ」
と言ってくれる。実際に経費の面からも、不必要な残業は控えるようにと総務部の方から通達があっていて、することもなく会社にいるのは罪悪感すらある。
「昔は、上司が仕事していれば帰りにくい雰囲気もあったが、今はそんなことないからな。早く帰ってしまった方がいいぞ」
言われるままに会社を後にする。夏の時期などはまだ日は高く、西日が眩しかったりしたものだが、冬になるにつれ、会社を出る頃には真っ暗になっていった。
――日が暮れるのが早くなったな――
季節感を感じるだけの余裕もある。会社を出て、近くの公園のベンチに腰掛けて、考えごとをしていた時期もあった。
ビル街の間にひっそりと佇む公園が好きなのは、ギャップを感じるからだった。今では死語となっている「コンクリートジャングル」という言葉を思い出すのである。ジャングルの中にひっそりと佇んでいる池のようなものを想像する。実際に池はあっても、ひっそりとしているわけもなく、弱肉強食の厳しい世界に渦巻く唯一のオアシスを勝手に想像しているだけである。遠くでは獣の甲高い奇声が聞こえ、鳥の羽ばたく羽根の音や、追いかけられて必死に逃げまどう弱者の群れ、映像でしか感じたことのない我々にとって、自然界の営みはまさしく自然現象としてのイメージしかない。
自然現象はどこまで行っても他人事である。まわりにジャングルが存在するわけでもなく、獰猛な獣だって、動物園という限られた場所の中のさらに限られた檻の中でしか見ることはできない。触ることなどできるはずもないのだ。
公園のベンチに座ってゆっくりしている時にジャングルの奥深くをイメージすることはなかったが、遠い記憶の中で、不気味に蠢いている記憶が顔を出すことはあった。
湿気を含んだ森の中、そこは手入れするものもおらず、雑草が生え放題である。門には頑丈に鉄条網が引かれていて、いつからそんな状態になったのか分からないが、二年や三年でそこまで荒れ果てるはずのないことは子供でも分かった。
公園のベンチでビルの谷間から見える空を見ている時は、必ずといっていいほど、ドンヨリとした曇天である。
――どんな色を混ぜればあんな色になるんだろう――
と、絵の具をかき混ぜるイメージが頭に浮かんでくるが、とても想像の叶うものではない。特に小学生の頃は芸術的なことは嫌だった。むしろ算数や国語のような主要科目の方が好きだったくらいだ。
絵が好きになったのは高校に入ってからである。遊びで描いたイラストだったが、先生から、
「なかなか才能あるじゃないか。一度コンクールにでも出してみたら」
と言われて遊び半分で出品してみると佳作であったが、入選を果たせた。
「まぐれですよ」
と謙遜したが、気持ちはまんざらではない。
「芸術は謙虚な姿勢くらいでちょうどいいからね。精進すればきっといい結果が出る」
と戒め半分だった。なるほど、自信にはなるが、さらなる自信過剰になっても仕方がないのが芸術だということも分かってきた。冷静な目で見ても、どうしても入選ということになれば、自分の才能を信じたくなるのも信条である。戒めたくなった先生の気持ちも分からなくはない。
――小学生の頃からもっと熱心にやってたらな――
とも思ったが、今から考えると小学生の頃に熱心になれなかった理由も分かってきた。
――芸術って、押し付けられてやるものじゃないんだ――
才能あるなしというよりも、性格的に押し付けられると跳ね除けたくなる本能のようなものが強ければ小学生の頃から反発した気持ちにもならなかっただろう。
空の色は見方によってさまざまである。普通の色だったら吾郎もそれほど気にして見ることもなかっただろうが、ビルの谷間から見える空は、どの色を混ぜたとしてもできそうもない色だった。黒っぽいと感じれば、白が浮きあがって見えるし、白っぽいと感じれば、黒が浮き上がってくる。絵の具では絶対に表現できない色だった。きっと黒や白というはっきりしたものではなく、限りなくグレーに近い色なのだろう。グレー自体が捉えどころのなさを感じさせ、奥深さを感じさせると思うのは吾郎だけではあるまい。
光にしてもそうである。カクテル光線のイルミネーションの艶やかさに飽きがくるほどの感覚を持っていたが、空の黒さは光では表現できない。光らないから黒いわけではなく、黒い光が存在しているというのが、吾郎の考えだった。
湿気を帯びた空を見ていると小学生の頃を思い出す。
冒険心旺盛だった少年時代だが、大人になるにつれ、どうしてこんなに臆病になるのかと思うほどだった。だが、小学生の頃の怖いもの知らずは、無鉄砲であって、決して勇気とは違うものだということが分かっている。分かっていて臆病になっていく自分を意識するのは、冒険心が決して悪いことではないと意識しているからであろう。
あれは学校と家のちょうど中間くらいにあったであろうか。大きな塀には蔦が絡み付いていて、その向こうには、まさしくこれぞグリーン一色といえるほど鮮やかに彩られた木々が生い茂っている。しかし、少し天気が悪いと色は深みを増して、抹茶を連想させる色になる。
――これが実際には植物の緑なのかも知れないな――
と感じさせられたものだ。
緑色には以前から恐怖心があった。トラウマのようなものかも知れない。友達と一緒に釣りに行ったが、そこで友達が沼に落ちて溺れたことがあった。
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次