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短編集51(過去作品

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 というのも、歴史上の人物というのは、過去の人の教訓を生かそうとしているのか分からないが、必ず同じことを繰り返したり、または、繰り返さないように意識しているかのどちらかである。歴史を意識することで自分がその時代での役割をしっかりと認識できるかどうかが、成功の分かれ道ではないだろうか。
 そう考えると、
――人に歴史あり――
 という言葉を聞くが、まさしくその通りだと思えてならない。
 武田自身にも歴史がある。両親を見ていると感じることで、両親がどのような教育を受けて育ってきたのかなど、大いに興味がある。あまり子供に干渉することのない親だけに気になってしまうのだ。
 いつも一人でいたいと思うところは、ひょっとして遺伝かも知れないと感じる。父親からの遺伝なのか、母親からの遺伝なのか、分からない。だが、両親はいつも一緒にいるところしか見たことがない。どこかに出かける時も必ず二人一緒である。そのわりに、子供時代の武田を無理にどこかに連れて行こうとはしなかった。武田自身も、自分からどこかに連れて行ってほしいとねだったこともなく、親も無理にでもどこかに連れていこうとはしない。ひょっとして、親が育てられた環境は、親が無理に子供を引っ張っていく時代だったのかも知れない。
 親の育った時代というのは高度成長時代、世の中が活気付いている時である。いろいろなレジャーランドができたりして、親が子供を連れて出かけるシーンを、昔の映像として見たことがある。人ごみを見ているだけで、武田としては酔ってしまいそうに思うのだった。
 今年の夏は暑かったこともあり、今まで以上に美術館に足を運んだ。しかし、今年はやけに人が多く、アベックの多さが目に付いた。普段は来ないアベックが暑さしのぎのつもりで現れるのか、それでも、まだ礼儀正しく見ているところは問題ない。
 夏が終わりかけの、入道雲が白い部分と黒い部分をハッキリとさせながら、空全体に蔓延り始めた頃の美術館は、少し人も減ってきた。ゆっくりと美術鑑賞ができるようになっていた。
 アベックが悪いというわけではないが、何しろ高校時代にあまり女性と付き合ったことのない武田だっただけに、せっかくの自分の領域を、あまり見たくない連中に汚されてしまうような気持ちに陥っていたのだ。被害妄想というやつである。だが、それ以上に、芸術の何たるかも知らないくせに、ただ涼みたいだけのために利用している様子が見て取れるのが悔しかった。
 その日の美術館は、昆虫や植物の絵を描くことで有名な画家の絵が展示されていた。
 ゆっくり見て回っていると、時間を感じない。贅沢な空間に少ない人数というシチュエーションが、気持ちにゆとりを与えるのだった。
 いつものように靴音に心地よさを感じながら見ていると、ふと一枚の絵の前で立ち止まった。
 色彩は少し赤っぽかったのは、全体が夕日に彩られているからだろうか。絵の中央には竹が描かれていて、絵の主役が、その竹の先端に止まろうとしている。
 最初はその主役が何であるか分からなかった。身体の線がやたらと細く、幾重にも縦に刻まれた節を持っていて、前の方から申し訳程度に六本の足が伸びている。完全に昆虫の様相を呈している。
――六本だよな――
 昆虫の足の数を知っているので、全体だけを見渡していれば、六本だということで頭が納得するのだろうが、絵を芸術として見ているとバランスを感じさぜるおえない。バランスを感じると、本数もしっかりチェックしないと気が済まなかった。
――確かに六本ある――
 納得すると、今度はその昆虫が何であるか分かってきた。あまりにも早いスピードで羽根が動いているので、絵に描くと、ハッキリと見えてこないのだ。
 だが、全体を見ていると、すぐにそれが何であるか分かるはずだ。そういう意味で絵に造詣の深い人間には却って最初は何の絵か分からない。絵画というのは、そういうニュアンスも必要ではないかと考える。素人の目と玄人の目、それぞれにまったく違ったイメージを抱かせ、玄人にはそれから先の評価を考えさせるだけの絵でなければ、展示されるまでのプロの絵としての実力はないであろう。
 見る方もそういう意識で見る。無意識に見ていても考えることは額の中でのバランスだ。それをやっと分かるようになってきた武田は、美術への造詣の深さを今さらながら、自分で感じるようになっていた。
 ものすごい勢いで動いている羽根は、見れば見るほどに想像を豊かにしてくれる。動いている角度や広がり、そして、音が聞こえてきそうだ。しかも、美術館のエアコンの風に逆らうかのような風まで感じる。それは決して冷たいものではなく、爽やかな自然な風である。
 赤い色に映える昆虫。それはトンボである。最初にトンボだというのは分かった。分かったのが早かったのか、それとも赤い色を意識したのが最初だったのか、少なくとも絵全体のイメージを掴む一瞬の世界へ誘ってくれたのは、トンボが先だったのか、赤い色が先だったのか、後になってしまっては、分かるものではない。
 トンボを見ているといろいろなことを思い出す。子供の頃に、竹に止まっているトンボの前に立って、指を回して目を回させようとしたことがあった。すぐに飛び上がったので、それからはもう同じことをしようと思わなかったが、あれは慌ててトンボの前に姿を見せたからかも知れない。いくらトンボでもいきなりでは、ビックリするのだろう。
 だが、子供の頃にそんなことは分からない。トンボの前に立って、目を回させるなどという行為は、不可能なのだろうと勝手に思い込んでいた。本当にできるかどうか、今も疑問である。
 そういえば今まで人生の節目で、トンボの姿を思い浮かべたものだった。何かを判断する時はいつも二者選択、たくさんある中からの選択肢ではないのだが、二つに搾られるだけに、間違えると大きな後悔に陥るだろう。
 プレッシャーに弱い方だった。バスケットをしていても、ある程度のレベルにまでは登れるのだが、そこから先が難しい。
「壁を自分自身で作っているようだね」
 先生から言われたことがあった。最初はその意味が分からなかった。
 それがプレッシャーであることに気付いた時、バスケットは続ける気にはなれなかった。そこで諦めてしまうからこそ、それ以上の上達がないのであって、まるで禅問答をしているみたいだが、理屈で割り切れるものではなかったと考えるのは、言い訳をしているのではない。
 トンボの姿を見て、一番疑問に思っていること、それは空で静止できることである。
 子供の頃に初めて見た時から不思議だった。子供心に不思議なものを見ているのだが、何が不思議なのか分からない。漠然と、
――何か変だな――
 と感じるだけで、今から思えばヘリコプターを知らなかったからだ。
 ヘリコプターを初めて見た時も不思議だった。それがトンボが空で静止できるイメージとシンクロしていることを感じているくせに、意識として繋がっていなかったのだ。
 ヘリコプターが飛び立つところを目の前で偶然に見たことがあった。
 育った田舎の近くに、大きな川があったが、そこの川原にいつの間にかヘリポートができていた。
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次