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短編集51(過去作品

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 新聞社の人が車でやってきて、そこから飛ぶのだが、川原の向こう岸を歩いていた武田少年の前で、突然羽根が回り始めた。
 激しい音とともに、川原に植わっている草がちぎれんばかりに揺れている。最初、四枚の羽根だったことは知っていたが、いつの間にか羽根が見えなくなるほど、ものすごいスピードで回り始めたのだ。
 羽根に集中していた目は、ヘリコプターの足へと向う。地面に接している部分がゆっくりと宙に浮いていく姿は圧巻だった。
 羽根の勢いなのか、胴体は静止していない。少しずつ左右にバランスを崩しながら宙に浮いていくのが見えた。
――静止しながら宙に浮くなんて無理なんだな――
 子供心にそう感じたものだった。
 今までトンボを見たことがあるが、マジマジと見たことはなかった。ヘリコプターが離陸する瞬間を目の当たりにしてからというもの、トンボを見ると、その時のイメージがよみがえってくる。
――しかし、不思議だ――
 ヘリコプターが離陸する瞬間を見ているので、トンボが浮いているのを見ても、あまり驚かないはずなのに、ヘリコプターの離陸を見たことで却って、宙に浮いているトンボの姿が今までよりも不思議に感じられる。
 これはきっと他の人は感じたことのない感覚に違いない。他の人はトンボが浮くこと自体を不思議に思うのだろうが、武田はそうではない。浮いている状況をマジマジと見つめていないと見えてこないものだった。
 子供の頃に見たトンボが変だったのかも知れない。
 それから意識して見ているトンボに、最初に見たトンボのイメージはシンクロしてこない。
 二回目から見るトンボのイメージは最初に見たトンボのイメージとも、ヘリコプターのイメージとも違っている。それが本当のトンボの性なのかも知れないと思うほどだった。
 二回目以降のトンボは、羽根を勢いよく動かして、まったく見えないスピードを使って宙に浮いているのはまったく同じなのだが、胴体の動きが違っている。
 羽根を動かしながら微妙に移動するのだが、向いている方向は一定である。絶対に他の方向を見ることもなく浮いているのは、背中の羽根を意識して動かしているからに相違ない。
 正面を見つめて何を考えているのだろう。前に誰かがいてもそのままにしているのだろうか。もし、指を差し出してクルクル回せば、そのまま催眠に掛かって落ちてくるかも知れない。
――トンボって、従順なのかも知れないな――
 目の前にあるものをじっと見続けるのが本能であるならば、トンボは従順で、まわりにあまり外敵もいない平穏な暮らしができる昆虫なのかも知れない。あくまでも子供心ではあったが、外敵が多ければ、それだけ防衛本能が身体に備わっているはずで、人間が前に立ちはだかれば、当然逃げようとするはずである。それをしないということは、トンボは比較的平穏に暮らせる昆虫であることを示している。
――弱肉強食――
 特に昆虫の世界はリアルにあるだろう。身体も小さく、動物のように行動範囲も広くない。それだけに防衛本能は生まれつき身体に沁み込んでいる種類が多いことだろう。トンボが秋に出てくる昆虫だということが影響しているのかも知れないと感じた武田少年だった。
 最初に見たトンボは、そういう意味で本当にトンボだったのだろうか。一定の空間に浮かんではいるが、身体をクルクル回して絶えずまわりを意識している。なぜ最初に不思議だと感じたのか分からないが、後から考えるとやはり不思議だった。
 トンボを見ていると、羽根の回転が速いので、羽根が見えない。宙に浮くために必死になって羽根を動かしているのだろうと、小さい頃は思っていたが、今考えてみると、それもどこかおかしい。
 虫が汗を掻くわけもなく、表情が変化するわけでもないので、必死になっているとしても分からないだけなのだが、どうも、それほど必死になって浮こうとしているようには思えない。
 同じ場所で浮いていなければならない理由はどこにもなく、疲れればどこかに?まればいいだけである。浮いていることが彼らにとって本能であるならば、そこに何ら必死になることはないだろう。
 トンボが二匹で飛んでいて、交尾をしている姿も見かける。空の上での愛情表現、人間には考えられないものである。
「宙に浮けるなんて、何てロマンチックなんでしょう」
 と言っていた女の子がいた。
 彼女も秋が好きな女の子で、一緒に夕日を見たことがあった。高校の時に好きだった女の子だったが、一緒に学校から帰ったりすることはあっても、デートに誘うことはなかった。それだけ武田の高校時代はウブだったのだ。好きだっただけで、本当の濃いだったとは到底思えなかった。
「トンボって、前を向いているつもりでも、本当に前を向いているのかしら?」
 おかしなことを言う女の子だった。だが、最初にトンボの話題を出したのは武田で、
「トンボって、どうして宙に浮くことができるんだろう」
 という疑問から始まった。トンボを見ていると、言いたくなったというのが本音で、普段なら一蹴されるのがオチだと思っていた。
「きっと、何かを探しているのよ。前に進みたくても進むことのできない何か厚い壁みたいなものがあるのかも知れないわ」
――厚い壁――
 その言葉が武田の胸に突き刺さった。
 せっかく一緒に帰るまでになったのに、彼女が何を考えているかの探りを入れてみたいところで、暗に暑い壁という言葉を聞かされると、考え込んでしまう。もちろん無意識には違いないが、もし、このまま告白しても玉砕されるに決まっているとまで思い込んでいた。
「何を探しているんだろうね?」
 彼女の横顔を見ると、真っ赤に光っているのが見える。
 川原に座り込んだ時はまだ西日が眩しいほどだったが、気がつけば夕日が真っ赤に光っていた。久々に見る夕焼けだったのである。
 まだまだ残暑が残っていて、入道雲が遠くに見えている季節だったが、確実に秋の気配が忍び寄っていたのだろう。
「夕焼けって綺麗ね」
 会話が弾むところまではいかないが、彼女の口から出てくる短い言葉は、少しずつ武田の胸をえぐっている。えぐっていると言っても、鋭利な刃物でえぐるというイメージよりも、じんわりと中から滲み出るものが呼吸によって、表の空気を揺さぶるような自然な心地よさを運んでいた。
 トンボも赤く光っていた。一匹ではなく、数匹のトンボが飛び交っている中で、今まで聞こえなかった羽根の音が聞こえてくるように感じた。
 きっと錯覚であろう。錯覚でなければ自分の世界に入り込んでしまっているとしか思えない。
 それも間違いではないだろう。
――独自の世界に入り込んでいる自分をもう一人の自分が見つめている――
 そんな構図が思い浮かぶ。
「私ってトンボが好きじゃなかったのよ。じっと同じところで動かずに止まっているのが気持ち悪いでしょう。一匹ならまだいいんだけど、何匹も宙に浮いていてそばにいると思うと、何か監視されているように思えてくるの」
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次