短編集50(過去作品)
頭痛というより重たいという感じなので、風邪のような症状があるわけではない。指先の痺れも感じないでいた。
普段よりも目が覚めるまでに少し時間が掛かっていた。それは頭の重たさが影響しているようで、それでも目が覚めてくるにしたがって、次第に軽くなってきていた。
睡眠が中途半端な時に、頭痛をともなった頭の痛さが残ることがある。学生時代など、試験勉強で疲れた時などにするうたた寝に似ている。
うたた寝は気持ちいい。特に冬の時期にコタツに入ってのうたた寝など最高だった。だが、うたた寝には目が覚めてから必ず何かきついものが残っている。コタツで眠ってしまった時など、風邪を引いていないかという心配があったりした。
まず喉が渇いてくる。これも、うたた寝の副作用のようなものかも知れない。目が覚めて最初にまず喉を潤すことから始める。たいていは、その時に頭の中も身体もスッキリするのである。
その日の目覚めは、まわりを意識することから始まった。
眠りに就いた時には確かにまわりに誰もいなかったはずなのに、数人の客が来ていることで驚かされた。
後から入ってきた客の気持ちになって考えると、カウンターに一人客がいて、その人が眠っていればどんな気分になるだろう。きっとあまりいい気分がしないに違いない。
自分であればあまり気にならないが。自分以外の人のことを考える時、どうしても気を遣うからか、感情的な考えに勝手に切り替わっていたりする。それも、
――まわりの人は自分よりも皆優れている――
という考えの反動なのかも知れない。
自分よりも優れているのであれば、細かいことには気にしないものだろう。だが、自分が起こしてしまったであろう不快感を相手が感じていないなどというのはこっちの勝手な思い込みで、まわりを見る時には決してやってはいけないことだと思っていた。
目が覚めてくるにしたがって、店内に流れている音響が大きくなってくるのを感じた。一人でいる時はそれほど大きな音だとは感じなかったのに、不思議だった。
だが、それよりももっと不思議なのは、数人の客がいて、皆一人ではなく、カップルだったり、女性二人だったりという客層なのに、話し声がまったく聞こえてこないことだった。
――いや、そんなことはないか――
よく聞き耳を立てていると、それぞれに会話をしている。ただあまりにも蚊の鳴くような小さな声なので、認識できないでいただけだった。
音響が大きくなってくるために声が分散されて感じるのだろうか?
いや、まわりを見ていればそれぞれ、皆自分たちの世界を作っている。顔を近づけて、人に話を聞かれないようにしているようで、雰囲気的にあまり今までに山科が感じたことのない不思議な世界だった。
――バーというもの自体、こういう雰囲気なのかも知れないな――
一人でいる時よりも、カクテル光線が艶やかに感じる。しかし、明かり全体が暗く感じられ、影だけがくっきりしているように思えた。本来影がくっきりと見えるのは、照明が明るい時のはずなのに、不思議な感覚である。
目が覚めてすぐには視力が落ちているものである。その時もそんな状態だったのだが、まったく知らない世界に飛び出してしまったように思えてならない。
時代が逆行して感じる。本当であればその場所に今、いるはずのない人が集まっているように思えるのだ。錯覚かも知れないが、その場にいるだけで、自分が帰りそびれてしまったと感じるのだった。
いつの間にか山科の隣に一人の女性が座っていた。
「あっ」
思わず声が出てしまったのを押し殺したが、すでに遅かった。彼女には山科の声が聞こえたようで、微笑んでいる。その微笑みは温かみを帯びているというよりも妖艶さを含んでいて、すべてを見透かされているかのように感じられるのは、彼女のことをまんざら知らないわけではないからだった。
まんざら知らないわけなどと、そんな中途半端ではない。お互いに一番知っているのが自分だと思っていた仲だった相手である。
――まさか、こんなところで遭うなんて――
自分の目を疑いたくなるのも当たり前というもの。遭うことのないはずの人を目の前にしているのだ。
――時代が逆行したように感じたのもまんざらではない――
それにしても、含み笑いのできるような女性ではなかったはずだ。感じていることや考えていることがすぐに顔に出てしまうタイプの女性で、
「君のそんな純粋なところがいいところでもあり、悪いところでもあるんだろうな」
と言った山科の言葉に、何も言わず恥ずかしそうに俯いていたような女性だったはずである。
名前を雅美というこの女性、プロポーションは抜群だった。スラリと背が高く、それでいて、胸やお尻の膨らみは見ているだけで弾力性を感じさせられた。スポーツをしている雰囲気でもないのに躍動感を感じるのは、弾力性があるからであろう。
肩まで伸びた髪の毛は、相変わらず艶を感じさせ、カクテルライトに照らされて、栗色に光っていた。思わず匂いを嗅いでみたくなるような甘い香りに、瞑った目を開けるのがもったいなく感じられるほどだった。
一つ文句があるとすれば、タバコを吸うところだった。お酒もカクテルくらいで、後はビールも苦手だった彼女には、いつもタバコの匂いだけが染み付いていた。それほどのヘビーではないのだが、雰囲気からは感じられない匂いなので、却って目立つのである。
ただ唇を重ねた時に絡み付いてくる舌の奥からのタバコの匂いに不快を感じたことはなく、それが妖艶さとして感じる原因でもあっただろう。
雅美に感じた妖艶さを、他の女性に感じることはなかった。他の女性には嫌悪感を感じることはあっても、タバコを吸っている女性に妖艶さを感じることはない。嫌悪感が妖艶さを封印しているのだ。
その時の雅美は口からタバコを話すと、唇が微妙に歪んだ。妖艶さというよりも、苦痛を伴う表情を感じさせたが、それも一瞬だった。
しかし、彼女がここに現れるわけはない。彼女は原因不明の自殺をした。ただハッキリと分かっていることは、何かを山科に伝えたかったことだけは確かなようだった。
山科は雅美の妖艶さを知っていた。知っていながら彼女に男としての感情を抱いていながら、彼女を抱くことはなかった。もし、彼女がそのまま自殺することがなくても、その気持ちは変わっていないはずである。
――どこかに手を出してはいけない雰囲気があったんだ――
彼女の好きなカクテルの中に、バラの香りのするものがあった。一度一緒に飲んだ時に感じたもので、それはそのバーオリジナルであった。
バーのマスターはいつも雅美に含み笑いを浮かべ、それを恐れていたように思う。妖艶さを雅美に感じたのは、そんなマスターの視線から逃れようとする雅美とは違うはずなのに、どこか怯えを感じたのは、後になってマスターとの話を伝え聞いたからだ。
結局自殺はマスターからの異常なまでの感情に追い詰められたからだということになった。だが、彼女が見せた山科に対する視線は恨みにも見えたのだ。
――そういえば、梨乃と雅美は親しかったっけ――
作品名:短編集50(過去作品) 作家名:森本晃次