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三年目の同窓会

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「でも、一度声を掛けそびれると、次から声を掛けることができなくなるってこともあるんじゃないかと思うんだ。君のお兄さんも、一度声を掛け忘れて、次から声を掛けられなくなったんじゃないかい?」
「いえ、そうじゃないんです。次からというわけではなく、今回は声を掛けてくれたのに次はなかったり、逆に今回はなかったのに、次回は声を掛けてくれたりと、一見共通性がないんですよ」
 坂出の性格からして、面倒臭いということはないだろう。それに一度声を掛けられなかったことで次は掛けにくくなるというほど、気弱な性格でもない。几帳面ではないが、連絡を怠るような男ではない。そう思うと、声を掛けずに一人で出かけた時というのは、声を掛けられない理由が存在し、坂出の中では納得済みのことなのであろう。そう思うと、ますます彼が遠くに感じられるようになっていた。
 坂出の性格の中に物忘れの激しさというものがあるが、それとはまた違っている。物忘れの激しさは、一つのことに集中していることで、集中する時間を別の空間に作ってしまい、できた空間と、普段の世界との間のギャップが、そのまま大きな溝になってしまう。それが、辻褄の合わない理屈を作り上げ、合わなくなる前がどうしても思い出せなくなってしまうのだろう。
「お兄ちゃんがいなくなってから、最初は、いつものことだろうと思っていたんですけど、今回は同窓会の翌日からすぐにいなくなったんですよ。いつもであれば、イベントがあった次の日に急にいなくなるということはなかったからですね」
 ということは、そこに坂出の意志がハッキリと伝わってくる気がしてきた。それが何なのか分からない。同窓会が引き金になったというよりも、最後に背中を押したと言った方がいいだろう。
 それなら、同窓会の仲間に話を聞いて、どこまで分かるか、微妙なところである。坂出の場合、思い立ったことをすぐに顔に出すようなタイプではないからだ。それでも、引き金であったというよりも信憑性があるだろう。当たってみる価値はありそうだ。
 亜由子の話を聞いているうちに、失踪というのは亜由子の勘違いで、心配することはないと答えようと思っていた自分が、どう答えていいか分からなくなってきた。どこか奥が深そうであるが、表に見えている部分だけで判断できないところが、
――奥に進むにつれて見えてくればいいのだが――
 と、思うようになっていた。
「お兄ちゃん、社会人になってから、スナックに行く機会が増えたみたいなんです。もちろん、会社の付き合いで行っているようなんですが、そのうちに一人でも行くようになったんです」
「どうしてそのことを?」
「お兄ちゃんの日記があって、そこに載っていたんです」
「坂出が日記を?」
「ええ、社会人になってつけるようになったみたいなんですが、結構細かいところまで書いていたみたいなんです」
 少し意外だったが、坂出のように忘れっぽい性格というのを自覚している人間は、日記をつける傾向にあっても不思議ではないだろう。
 日記というのは、川崎もつけていたことがあった。中学時代だったのだが、確かに日記をつけていると、忘れっぽさがなくなってくるような気がした。だが、それはあくまでも感覚であって、実際に忘れっぽさが治ったわけではない。日記をつけることで規則正しい生活ができているような気がするが、こちらは本当のことで、日記が生活していく中の重要なリズムになっていることを、川崎は知ったのだ。
 それをどうしてやめてしまったのか忘れてしまったが、安心感と油断があったに違いない。
「もう大丈夫だ」
 日記をつけなくても、規則正しく生活できると思ったのだろう。最初はよかったが、途中から、まったくのちゃらんぽらんになってしまったことも事実だった。
 川崎は、自分の日記を読み返したことはない。一度書いてしまったら、安心してしまうのか、それとも、毎日書くことで、過去のことは洗い流されていくような気がしていくのか、過去の日記を読み返そうという発想すら、浮かんでこない。
 日記は書けば書くほど、自己満足にしかすぎないことが分かってくる。誰かに読ませようというものではないので、文章などどうでもいいのだ。ただの箇条書きでも構わない。後で読み返して分かればそれでいい。
 しかし、読み返す発想すら浮かんでこない。しかも、読み返して文章にもなっていないものを思い出すことが果たしてできるのか、それも疑問だった。書かれているものはただの暗号、誰かに見られると恥かしいので、分からない字で書いているという思いがあるのも事実だが、訳が分からない内容で、しかも、思い切り崩している字で書いていて、下手をすれば、自分でも分からない字を見られることの方が恥かしい。要するに日記に残っていることはすべてが無意味なことではないかと思えていた。
 途中で書くのを止めてしまった本当の理由はここにあるのかも知れない。浅いところでは、ただ面倒だからという理由であるが、いくらでも理由づけなどできる中で、ハッキリとした理由が見つからないのは、日記を書くことの矛盾を、言葉に表すことが難しかったからである。
 日記というものは、最初、書くのが嫌だった。小学生の頃の夏休みに書かされていた絵日記、何を目的に書かなければいけないのかという疑問がその時からあった。
 川崎は性格的に、自分が実際に見たりして、納得したものでなければ信じることはなかった。頭の中に疑問として残ってしまったことを納得できなかったこととして、信じることはできなかったのだ。
 納得できないことを信じるというのは、危険なことだ。ただ信じてしまって、何かの応用を考えようとしても、そこから先、進むことができない。それは日記をつけることだけに限らないことなのだ。
 絵日記を思い出すと、夏の暑さの気だるさも一緒に思い出される。気だるさは早朝から容赦なく降り注ぎ、つるが枝を伝って、垣根まで伸びている朝顔が浮かんでくるのは、時々遊びに出かけた田舎のおばあさんの家が思い出されるからであろう。
 夏休みになっていつも出かけたおばあさんの家、八月に入ってから、お盆が終わるくらいまでの間、滞在していた。三週間ほどなのだが、数か月くらいの長さに感じるのは、それだけ普段住んでいる都会の住宅街と違って、パノラマに広がった景色同様に、すべてのものが新鮮に感じられたからだった。
 おばあさんの家を訪れたのは、小学生の頃だけで、中学に入ると、行くことはなくなった。クラブ活動の影響もあるが、中学に入ったのだから、行かなくてもいいだろうという親の判断からだった。ということは、田舎に出かけていた一番の理由は、
「息子が小学生だったからだ」
 ということになるのだろう。
 それは表向きのものなのか、内だけの問題なのか分からないが、子供を理由にしていたということは、子供の立場からすれば、どうにも釈然とするものではなかった。せっかく田舎に行くことが楽しかったのに、理由づけの材料にされてしまったのは、納得できることではなかった。
 川崎にとっての日記づけも同じなのかも知れない。
作品名:三年目の同窓会 作家名:森本晃次