三年目の同窓会
確かに彼には、気配を消そうという意思があり、その気持ちが無表情に表れていた。
彼女にはそのことが分かっているのに、彼の気配がさらに強くなっていることが気になっていた。
――彼が気配を消そうとして、消すことができないのか、それとも、彼には気配を消せているのに、私が消した彼の気配を身体に受けてしまっているのか――
もし後者だとするなら、気配を消そうとしている相手を感じるようにするならば、彼の意志よりも強いものを持っていなければ無理であろう。
確かに、強い意志を持ってこの列車に乗ってはいるが、それは他人に関係することでも他人を巻き込むことでもない。それなのに、その人の気配を感じるということは、
――彼も私と同じような経験をしているのか、それとも、私と同じ結末を迎えようと思っているのかのどちらかではないかしら――
と、感じた。
この思いは、どちらにしても前向きな考えではない。明らかに後ろ向きであり、先が知れた結末を望んでいるのだった。
終点に近づく頃には、すでに隣の車両に客はなく、自分が乗っている車両にさっきの男性客が一人いるだけだった。車窓の風景は完全に変わってしまっていて、見ている先に、何が見えるというのだろう?
駅に降り立つと、夜のしじまに浮かび上がる温泉宿は、わざとであろうか、明るさが控えめだった。ただ、他に明かりもなく真っ暗な中に浮かび上がっているのだから、余計な明るさはない方がいい。
もちろん、他に何らかの歓楽街があるならば仕方がないが、この温泉は、他の温泉とは違い、歓楽街のようなものはおろか、他に宿もない。
――隠れたる秘境――
まさしく、ここはそんな場所なのだ。
宿代は、三泊目までは通常料金、それ以上宿泊するならば、あとは食事代だけでいいというのもありがたい。そのわりに何ら宣伝しているわけでもなく、隠れたる秘境のこの場所で、予約する客もいるのだろうか?
「いらっしゃいませ」
優しそうな女将さんが出迎えてくれた。
「お世話になります」
「お名前は、鈴村様ですね?」
「はい、鈴村恵です。宜しくお願いします」
と、答えたところへ、先ほどの男性が入ってきた。さっきの駅で一緒に降りたのだから、目的地はここしかない。恵より少し遅く降りて、さらにゆっくりと歩いてきたのだろう。
女将さんが彼にも挨拶すると、
「坂出です」
「坂出様ですね。お待ちしておりました。どうぞごゆっくりしていらしてくださいね」
と、言って挨拶をした。
奥から、もう一人女中さんがやってきて、彼女が恵の荷物を部屋まで運んでくれた。必然的に坂出の荷物は、女将さんが運ぶことになる。
思ったより温泉宿には部屋がいくつもあった。有名な温泉街でも、この広さは決して狭いものではない。こんなところに、やってくる客はそうはいないはずなので、
――こんなに作ってどうするんだろう?
と思うほどだった。
部屋も贅沢に作ってあり、一人の宿泊なのに、二部屋用意してある。
「こんなに贅沢な造りにして、どうするんですか?」
と聞いてみると、
「ここは、以前から、芸術家の方が長期滞在されるのに、活用されていたらいいんですよ。今でこそ、あまり来られなくなりましたけど、以前は、ここのお部屋が満杯になることもあったらしいんですよ」
「なるほどですね。だから、三泊目から以降は、食事代だけというサービスがあるんですね」
「そうなんです。ただ、一般のお客様も長期滞在される方もいらしたようです。皆さん、きっとそれぞれに理由があって、俗世間から逃れたいと思っている人が多いのではないでしょうか?」
恵は、その言葉を正面から聞いて飲み込んだ。そんな気分になっていた。それだけ、今の女中さんの言葉は、図星だったのだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
恵は、自分がここに来た理由を思い出していた。忘れたいということがあり、フラッと出てきた旅、以前は、
――無意識でいられたら、どんなに気が楽なんだろう?
と、毎日の生活の中で思っていたものだ。
それが、今は俗世間から逃れ、旅に出てみると、そのほとんどが無意識になり、すべてを忘れられそうな気分になるのだから不思議だった。
「初めての一人旅か」
恵は、独りごちたが、その表情は複雑だった。俗世間をいまだ忘れることができないでいる自分と、ここまで無意識になれる自分がいて、まるで二人の自分が身体の中にいるようで不思議な感覚がしたのだ。
恵は、俗世間でも、なるべく何も考えないようにしていた。余計なことを考えると、どうしても惨めな自分を見つめない限り、他のことが考えられないからだ。自分を見つめなおすことを嫌がる理由は、惨めだと思っていないと心の奥では思っているのに、まわりの偏見に満ちた目に負けてしまう自分が情けないと思うからであった。
恵の俗世間の職業は、風俗嬢だった。高校を卒業して、就職もできず、進学するわけでもなかった恵に彼氏ができたのだが、その男が、あまり素行の良くない男だったのだ。
最初は、恵に優しかったその男は、次第にねだるようになる。お金を都合してくれるようにねだるのだが、最初は家族が病気だとか、もっともらしい理由を語っていた。
もちろん、恵にそんなお金などあるはずもない。かといって、彼と別れたくもない。手っ取り早くお金を儲ける方法。それは風俗だったのだ。
高校を卒業するまで処女だった恵だが、彼と知り合って、セックスの素晴らしさを知った。相手に満足してもらえることと喜び、そして、相手が癒されたと言ってくれることの満足感、すべてが、今までになかったもので、
――世の中に、こんなに素敵なことがあるんだ――
と思ったほどだった。
それは、肉体的な快感から得られるものではなかった。精神的な満足感が伴わないと、決して味わうことのできないものであった。
だから、恵には貞操感覚は少なかったのかも知れない。彼氏もそれが分かったので近づいてきたのかも知れないし、たまたまだったのかも知れないが、こんな男なら、恵以外の女性にも同じようなことをしていたかも知れないと、後から思えば想像できないわけでもなかった。
風俗への抵抗感もないまま、風俗の門を叩いたが、さすがに最初は殊勝だった。怖さがまったくないわけではなかったからだ。
それが初々しさと重なってか、恵は客受けが良かった。リピーターも多く、店でも恵を大切に扱ってくれた。
――ひょっとして、私の天職なのかも知れないわ――
と思ったほどで、風俗で働くことへの抵抗はまったくなくなっていた。
それでも彼氏に内緒にしていたのは、彼が体裁にこだわる人だったら、嫌だと思ったからだ。何も知らない彼は、相変わらず恵にお金をねだる。恵もできるだけ彼のためにお金をあげてきたが、お金だけで繋がっている関係など、そう長くは続くものではない。
ある日突然、彼が恵の前から姿を消した。恵は、ショックを受けたが、その時の立ち直りは早かった。心の中で彼のことを、
――私のお金だけが目当てなんじゃないかしら?
と、気付いていたのだ。