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三年目の同窓会

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 昼間は絶えず黄色い靄が掛かったように、身体中に気だるさが感じられる。意識が中途半端にしっかりしているだけに、考えていることが裏目裏目に出ていることを証明しているかのようになるのだ。
 夜は逆に、ハッキリと見えている。光るものの近くは普段ならぼやけていたようなものがクッキリと見えてくるのだ。
 普段はぼやけているせいで大きく見えているものがクッキリと見えるせいで、夜の世界全体が、狭く感じられる。果てなどないはずの暗闇の世界。そこに果てがあり、限界を見ることができるのではないかと思うのだった。
 昼は逆にすべてがぼやけているために、世界が広く感じられ、果てがないことを再認識するせいもあってか、一度考えたことが再度考えることになる堂々巡りを繰り返すことを意識させられる。
 昼夜を問わず、鬱状態において共通していることは、何を考えても求めることのできない結論へのやるせなさだった。やるせなさがやがて、すべて悪い方に向かってしまうことで、苛立ちと虚しさを作り出す。そんな世界が鬱状態なのだ。
「夢だったらどんなにいいか」
 と、思ったこともあったが、実際には夢のようなものである。
 妄想や、夢が潜在意識の中でだけ繰り広げられるものであるとすれば、鬱状態が夢であっても不思議ではない。むしろ、夢だと思った方が、どれほど気が楽かと思う。ただ、夢だからと言って鬱状態の辛さを逃れることはできない。なぜなら、鬱状態は、半永久的に続くものではないからだ。
 鬱状態というのは、必ず終わりが来る。それは躁状態への入り口であることも示している。
「鬱状態を抜けると必ず躁状態が訪れる」
 これに間違いはないのだ。
 鬱状態と躁状態、この二つは両極端ではあるが、背中合わせに存在しているもの。決して切り離すことのできないものである。鬱状態の後に必ず躁状態が来るということは、
「躁鬱症の終わりは、必ず躁状態だ」
 ということに繋がっているのだ。
 鬱状態の終わりは、トンネルのようなところだった。
 黄色掛かってぼやけていた世界が、ハッキリとした黄色い世界に変わってくる。しかもそれは昼間の気だるさではなく、夜の暗闇の中に照らされた明かりが、白い閃光から、黄色掛かった閃光に変わってくるのだ。
 黄色い閃光は、暗闇と交互にやってくる。最初は車のヘッドライトが交互に当たっているようなもので、大きな通りの舗道にいるのかという感覚だったが、そうではない。トンネルの中に見えている、等間隔に設置された黄色いランプの間を抜けているだけだったのだ。
 もっとも、これから迎える躁状態の世界への入り口という観点から考えると導き出される感覚から感じたもので、
「ここまで辻褄が合った妄想なら、真実と言ってもいいかも知れない」
 と、感じたほどであった。
 最初は躁鬱症を妄想の世界だと思っていた。だが、周期的に繰り返していること、そして、前兆が分かることから、妄想も潜在意識が作る真実だと思うようになったのだ。
 真実だというのは言いすぎかも知れないが、真実がすべてではないということの裏返しでもある。
 トンネルをひた走る感覚を自覚してくると、すぐに黄色い閃光が、白い閃光に変わってくる。
「いよいよ出口だ」
 鬱状態の出口であり、躁状態への入り口でもあるのだ。
 出口を抜ける瞬間、実は意識がない。抜けたという感覚とともに、目が覚めている。目が覚めれば、そこに広がっているのは躁状態だ。
 躁状態が、
「どんなことでもプラス思考だ」
 と思っていたが、どうやら少し違っているようだ、人によっては、
「悪いことや、余計なことを考えなくてもいい世界だ」
 と、いう人もいたが、それも微妙に違っている。
 何が違うのかはハッキリとしないが、分かっていることは、
「鬱状態と相対の関係にあり、絶えず背中合わせで切り離して考えることのできない世界だ」
 ということである。
 周期的に繰り返しているのも、何か理由があるのだろうか?
 小さな世界が背中合わせに繰り返される時間が存在し、さらに、躁鬱症という大きな世界を、今度は幾度か繰り返す。そう思うと、人生のすべてだと思って暮らしている世界が時系列で展開されているのも、実は、どこかで繰り返されているのではないかと思うのは突飛な考えであろうか?
 川崎は、奇しくも躁鬱症について、坂出と激論を戦わせたことがあった。
 川崎の論理に比べて、坂出は、あくまでも現実的な考え方で、
「躁鬱症なんていうのは、言い方は悪いが、逃げの考え方なんだと思うんだ。現実に背を向けてしまうから、鬱状態を作り出し、その反動で躁状態を作り出す。世の中って、結構反動が多いだろう? そう考える方が、よほど理に適っているように思わないか?」
 坂出の考え方ももっともだと思う。
 坂出のそんな考え方を聞いてから、川崎は坂出を無視できなくなった。それは考え方を絶えず戦わせていたという考えがあったからで、あまり仲が良くないようにまわりから見えたのは、激論を戦わせていたからではないだろうか。
「勇気と無謀。慎重と弱気。これは、相対的な考えだけど、これだって紙一重なんだ」
 と、坂出が言う。川崎も何となく分かっていたが、坂出の話を聞いてみた。
「もうダメだと思ってみても、そこに一縷の望みが隠れていて、それを分かって行動するのが勇気。望みを確認しないで行動するのが無謀。これは、日ごろの鍛錬にもよるんだろうけど、それは、一瞬の判断力を養うという意味でだね」
 確かにその通りだ。一瞬の判断を誤れば、命取りになるのは必至で、一瞬の判断力は、すぐに身につくものではない。練習できるものでもないだろう。シュミレーションがどれほど生きるかも分からない。持って生まれた資質もあるだろうが、一番は、その人のやる気が漲っているかどうかであろう。
「慎重と、弱気も同じだね。何事も引き際が肝心だと言われるが、判断力という言葉を引き際に置き換えると、同じことが言えるのさ」
 その時の坂出の表情はイキイキしていた。
――これがこの男の魅力なんだな――
 人と話をしていて、相手の性格に対して感動を覚えることなど、そうたくさんあるものではない。
 坂出と話をしていた時のことを思い出しながら、亜由子を見ていると、
「亜由子にも坂出と同じ血が流れているんだな」
 と思うと、少し複雑な気がしてきた。
 そして複雑な思いと同時に、自分の中に、亜由子に対して、淡い恋心のようなものが芽生えてきたことを意識していた。ただ、その答えをいきなり求めるようなことはしない。まずは、坂出を探し出して、亜由子に引き合わせること。そして、けじめとして、どうして失踪したのかという本当の理由を、自分だけでも聞き出さなければいけないと思った。
――俺になら、必ず真相を話してくれる――
 川崎はそう感じたことを疑わなかったが、川崎にとって、今はどうでもいいことだった。
「あまり先のことを強く考えない方がいい」
 この考えに至ったのは、先走りすることで、当初の目的がおろそかになってしまって、従来しなければいけないことを見失ってしまうことが以前にあったからだ。
 それも夢の世界に起因していたように思ったが、要するに、
「余計なことを考えてしまう」
作品名:三年目の同窓会 作家名:森本晃次