短編集49(過去作品)
その日、電車のダイヤはめちゃくちゃだった。途中徐行運転をしているのが災いして、駅には電車に乗るための人が殺到していたのだ。
JRは早々と運行見合わせを決定し、それらの人が私鉄の駅になだれ込む。あたかもJRの運行見合わせが夕方ラッシュに掛かってしまったことが、混乱に拍車を掛ける。
私鉄はなかなか運行見合わせを行わない。しかも行うとしても、
「○○時をめどに運行を見合わせます」
と、ある程度の時間の目安を決めてくれるからありがたい。JRにはそれがなく、駅に行っていきなり、
「ただ今から、運行を見合わせます」
と、いきなりの通告で、客は不平不満を爆発させる。
暴動が起きないのが不思議なくらいだ。JRの体質を知っているから諦めがつくのか、それとも、
「まだ、私鉄がある」
という気持ちが暴動まで発展させないのか、そのどちらもであろう。こんなところでボヤボヤなどしていられない。いつ私鉄も運転を見合わせるか分からないからだ。
当然、私鉄の駅はJRから流れてきた人でごった返している。あまりラッシュには慣れていない人が多いであろうから、この光景を見て皆目を丸くするが、それでも乗らなければ帰れない。皆必死になっている。
電車の遅れは次第に大きなものになっている。一時間遅れなどざらで、電車が来て乗り込むと、その理由も分かってくる。
理由はハッキリとしていた。途中の徐行運転もさることながら、一番の原因は、乗客の乗降にある。藤原の乗る駅は始発駅にあたり、終着駅がそのまま始発駅になる。つまり、すべて折り返し運転なのだ。
乗ってきた人をすべて降ろし、それから待っている人を乗せる。はち切れんばかりの乗客で、駅のホームは溢れかえっている。
乗客をすべて降ろすだけで、普段の倍近く掛かっていて、しかもそれからこの状況で、乗客を乗せるのである。
並んでいる状況ではなく、入り口に人が殺到する。なだれ込むように入り口からはじき出されるように中に押し込まれる人が次第に車内でひっ迫している。
どこからともなく悲鳴が聞こえ、悲鳴の数が増えてくる。どこかが押し返すと、どこかに圧力が掛かり、さらに押し返すと、他へ圧力が移ってくる。
まるで断末魔といえば大袈裟だろうか。空気も完全に汚れてしまって、早く発車してほしい状態だった。
だが、その期待に反して、入り口付近では乗れない人がさらに、車内の奥へ人を押し込んでいる。見ると、まだホームに人が溢れかえっていて、到底全員が乗れる状態ではない。
もちろん、そんな状態で扉を閉めるわけにはいかない。車掌も様子を見ているしかなかった。
だが、ホームに残った乗客も必死である。その電車に乗らないと、さらにどれだけ待たされるか分かったものではない。
「中、もっと詰めろよ」
ホームで押している人からは罵声が聞こえる。
中で苦しんでいる人は、
「バカ野郎、これ以上詰められるか」
と応酬するが、
「中の方は空いてるじゃないか」
と言われて見てみると、なるほど、牢側の扉の間の座席のないスペースは虫の子一匹入り込めないほどの状態だが、座席の前に吊り革に?まっているところに立っている連中がいる場所は、それほどまでに窮屈ではない。これでは乗ろうとしている連中からは罵声が飛ぶはずだ。
なぜか、それでも中に詰めることができない。不思議な現象だった。
――やはり、まだ皆ラッシュに慣れていないんだな――
東京、大阪で毎日のようにラッシュに遭っている人の話を聞いたことがあるが、彼らはキチンとマナーを守って、暗黙の了解で、実にうまくラッシュを乗り越えているらしい。
「やはり経験なんだろうね。ラッシュの中にいても苦しくないような呼吸方法を自然にマスターできるようになったよ。最初はそれができなくて、毎日がウンザリだったけどね」
ラッシュの恐怖が都会に対しての憤りに拍車を掛ける人もいるだろう。田舎から出てきた人には耐えられなくなる人もいるようで、直接的な原因ではないにしても、田舎に帰る原因の発端になったであろうことは否めないはずだ。
電車の遅れはこれだけで十分に当然だと分かるはずだ。
始発駅でそうなのだから、途中の駅ではさらにパニックである。
降りる人が奥の方にはじき出されていれば、何とかして降りようとする。それでも、途中にいる人は押し出されないように必死にそこに耐えているから、なかなか降りることができない。
「降りまーす」
電車の中のいたるところで声が聞こえる。
――扉近くの人は表に出てあげればいいのに――
これも暗黙の了解がなければ、なかなか分かるものではない。何しろラッシュに慣れていない人ばかりなので、自分のことで精一杯だ。
――もし、押し出されてしまったら、今度は自分が乗り込めないかも知れない――
と思うのだ。
事実、ホームにはこの駅から乗ろうとしている人で溢れていた。この状態は始発駅の再来である。
普段は一分以内の停車なのだろうが。乗り降りだけで五分は掛かっていた。扉は一つだけではない。一つの車両に三つの扉がついているとすれば、六両編成でも十八の扉がある計算だ。それがすべて閉められるような状況にならなければ、発車することはできない。液に到着するたびに、これの繰り返しだった。
何とか降りる駅についたが、なかなか冷静になれるものではない。
まだ心臓がドキドキしていて、電車内の湿気で汗が身体中から吹き出している。とりあえず落ち着きたい。
駅近くにある喫茶店に入り、コーヒーを注文した。喫茶店は、ビルの二階に上がっていく形式になっていて、窓からは駅全体が見渡せる。
ここからは家まで徒歩で十分程度、少しくらいの時間は大丈夫だ。一人暮らしなので、どちらにしてもどこかで食事を取るつもりでいた。喫茶店が開いていたのはありがたかった。
時々立ち寄る店で、ウエイトレスの女の子も顔見知りである。
「今日は大変でしたよね」
ねぎらいの声を掛けてくれた。
「そうだね、でも何とか帰りつけたよ」
運んできてくれたお冷をおいしそうに半分まで一気に飲み干す藤原、呼吸方法を気にしながら電車に乗っていたので、それほど苦しい感じはなかったが、それでも落ち着いてしまうと、かなりの緊張感があったのか、少し息が荒くなってきた。
窓の外を見ると、タクシーを待っている列が見えた。タクシーも稼ぎ時と見えて、かなりの数が出ているはずなのだが、それでも客が並び始めて五分も経たないうちに出払ってしまった。ホームを抜けるのをダラダラしていた連中が残っているのだろう。
何しろラッシュに慣れていないということは、目的の駅についてから先のことも考えられないということなのか、それとも、元々がのんびりした性格なのか、どちらか分からない。
たくさんの人がホームや階段になだれ込むので、思ったようなスピードで歩けないのが嫌だと思っている藤原は、いつも早歩きをして一番に改札を抜けることを心がけている。ダラダラするのが嫌なのだ。
しかも、改札に一番近いのがどの位置から乗るのが一番いいかをわかっているからである。
作品名:短編集49(過去作品) 作家名:森本晃次