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短編集49(過去作品)

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 朝の二十分というと、結構な時間かも知れない。
 ただ、朝完全に目を覚ますまでに二十分近く掛かる八代は、
――他の人に聞いたことはないが、長いんだろうな――
 と思っていた。
 朝、目を覚まして行動を起こすまでに二十分掛かる。今まで目を覚ましていた時間には、髭を剃り始めてからすでに行動を起こす時間でなければいけなくなっていた。
 最初は苦痛だった。この二十分がとても長く感じられたからだ。
 しかし考えてみれば、目を覚ますまでの二十分間というのはあまり意識している時間帯ではない。朦朧とした意識の中で、いろいろなことを考えている。
――起きなきゃいけないんだ――
 当然、この思いが一番強いだろう。
 目が覚めるまでに身体は覚めているのだろうかと考えることがある。
――目を覚ますまでにするあくび、果たして何回なんだろう――
 数えたことはないが、かなりの数のようだ。目が完全に覚めていないのだから、数を数えることなど、考えてみれば難しいことである。あくびをすると必ず涙が出てくる。涙を拭くと、視界が次第にしっかりしてくるように感じられる。目が覚めていくまでに通る関門の一つであった。
 抜いた髭はやはり白く、まるでピアノ線のようなものだった。目立っていないように思えたが、抜いてみると、結構目立つものではないだろうかと思えてきた。
 剃った髭を見ていると、いつまでもこんな髭を見れるわけがないことを意識の中で感じていた。
 予想は的中した。数日間は同じような白く柔らかい髭だったが、毎朝抜く前に指で顎を触り、さらに鏡を見ているが、三日目くらいから指で触った感覚が硬くて太いものであることが分かった。
 鏡を見ると、
――なんて濃い髭なんだ――
 真っ黒くて太い髭が想像以上に深く生えている。
――一日で本当にこれだけ生えたんだろうか――
 と疑問を感じさせるもので、
――しかしおかしいよな。髭を抜いていたら、濃い髭が生えてくるはずはないと聞いていたんだけどな」
 聞いた人がウソを言っているのか、それとも自分が特異体質なのか分からないが、どうにも納得の行くものではなかった。
 それでも、髭を剃ることはしたくない。母親や父親のいうことを聞きたくないという意地もあるのだが、髭を抜くことの快感を覚えたからだと八代は思っていた。
 さっそくいつもの髭抜きで抜いてみる。
――痛い――
 最初は今までの力の入れ具合で何とか抜こうと試みるが、なかなかうまく行かない。髭抜きで髭を挟むが滑ってしまうのだ。
 力を入れすぎても無理な気がしたので、慣れるところから始める必要があった。
 ゆっくりと髭に先端を当て、しばしじっとした体勢を取って、ゆっくりと挟んだ力のまま髭を抜きに掛かる。
 痛いのは当たり前で、引っ張られている感覚が分かる。きっと鏡で見ていたとしたら、さぞや痛々しい光景が写っているのではないかと感じられた。
 髭抜きが抜いた髭の根っこを触ってみる。
 少し濡れているが、
――必死で自分の身体にしがみ付いていた証拠なんだな――
 と感じ、それを強引に引き抜いてしまったことに最初後悔の念もあったが、抜くことを決めた以上、非情になってもいたし方のないことだった。
「ふっ」
 思わず苦笑いが漏れた。
――それほど大袈裟なものではないだろう――
 まるで小さな物語ができそうな内容ではあったが、要するに自分の意地や天邪鬼な性格が作り出した世界だった。何とか正当化したいという気持ちの表れかも知れない。
 いつもよりもさらに時間が掛かってしまう。
 中途半端にしか抜くことができなかった。
――明日からはさらに十分早く起きることにしよう――
 すでに早く起きることに抵抗がなくなりかけていたので、ここで十分くらい早くなるのは大したことないと思っていた。だが、翌日からさらに十分早く起きるようになったのだが、昼間今までにない睡魔に襲われるようになっていた。
――どうしてなんだろう――
 早起きするようになったという意識はあるはずなのに、すぐに早起きが影響しているとはなぜか感じることができなかった。
 早起きが影響しているなら、それまでの数日間にも少なからず睡魔の兆候が現れてもいいはずなのに、それがなかったからだ。
――ある一定の時間を越えると、感じ方がまったく違ってくるものなのかも知れないな――
 と思うようになっていった。
 ティッシュペーパーを敷いておいて、その上に抜いた髭を無造作に置いている。
 次第に白かった紙の上が黒く生い茂ってくるのが分かってくる。まるで、ティッシュペーパーの上に髭が生えたかのようだ。
 最初の数本抜くのにだいぶ時間が掛かったかのように思えるのが、気がつけばティッシュペーパーの上はすでに真っ黒になっている。最初に感じている時間と後から考える時間とではかなりの違いがあるに違いない。
 最初鏡で見た自分の髭よりも多く感じるのは気のせいだろうか。しかも抜いた後に鏡を見ると、まだまだ残っているようにさえ思える。実に不思議な感覚だった。
 指で触った感覚が、忘れられないのも事実だ。
 指に残ったツルツルした感覚もさることながら、触られた顎の感覚も何とも言えない。
 例えば、右手と左手で、それぞれ熱さが違ったとしよう。寒い中、雨が降っていて、ちょうど手袋を忘れていた時など、右手で傘を差し、左手はポケットに突っ込んでいた時など、左手は暖まっていて、右手は指の感覚が麻痺してしまいそうなほど冷え切っていることがある。
 目的地に到着し、傘をたたむと、右手の冷たさを思わず暖めておいた左手で庇おうとすることもあるだろう。
 左手が右手を覆う。その時にどちらの感覚が強くなっているだろう。どちらも自分の身体の一部で、何も考えなければ、きっと冷たく感じている左手の方の間隔が強いことだろう。
 だが、ふとした瞬間、右手に感覚が移ることがある。そんな時、
――やっぱり自分の身体で感じていることなんだ――
 と思うのだが、顎を触った時にも同じことを感じる。
――ずっと触っていたい――
 指に残った感覚よりも、顎が感じる瞬間の方が、心地よい。触っているうちに、交互に感じる感覚に酔ってしまっているのかも知れない。
 あったものがなくなってしまうというのは、自分の身体を自らで変えてしまっていることでもある。そのことを無意識に感じているのだろう。
 ある日、夢を見た。
 あまり夢を見ることがないと思っていたのだが、その時の夢の記憶は目が覚めてからも薄れて郁子とはなかった。
 夢というのは、目が覚めるにしたがって記憶が薄くなるものである。夢の世界は睡眠の中だけで許されるもので、だからこそ、潜在意識がフルに表現できる場所でもあるのだろう。
 夢の中で髭を剃っている。
 普段は鏡を見ることもなく剃っているはずなのに、その時は鏡に写った自分を凝視していた。
 視線は顎を見ているわけではなく、顔全体を捉えている。それでも顎が鮮明に写っているのは、夢ならではと言えるのではないだろうか。
 顎の先端が黒い剛毛で覆われている。ここまで伸ばしたことは一度もなかったはずなのに、夢の中で違和感がないのは、髭を剃る時に決して鏡を見ることがなかったからであろう。
作品名:短編集49(過去作品) 作家名:森本晃次