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短編集49(過去作品)

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 悲しい時に悲しい。楽しい時に楽しい。それを素直に感じることができるのはむしろ子供だからかも知れない。大人になるにつれ、まわりのことや余計なことが頭を巡り、素直な感情を忘れてしまう。本当は感受性をもっとも受け入れられるはずなのに、大人になるというのは、経験の代わりになくしていくものも少なくないのだろう。
 母親の和服姿に艶やかさを感じていなかったといえば嘘になるかも知れない。後姿を意識していたというのは、艶やかさを見ていたいという気持ちの表れに違いないのだから。
 雅夫少年は、まだ女性に興味を持ち始めるまでには行っていなかった。クラスメイトの女の子を意識したことはない。テレビ番組で大人が興奮するようなシーンが出てくれば、それなりに感じるものがあったであろうが、その気持ちがどこから出てくるのか、自分では分からない少年だった。
 異性への興味の表れが母親の後姿だったのかも知れない。そのことを後になってきっと思い出すに違いないだろうが、悲しいかな当事者が一番分かっていない。子供の頃の記憶というのは、えてしてそういうものに違いない。
 時々和服姿の女性を見かけ、思わず振り返ってみるが、母親ではないことが分かると、がっかりしている自分に気付く。
――なんだ――
 それでも目は和服姿の女性を追っている。どこかに魅力があるはずだと思って見ているからに違いない。
 すると、相手もそれに気付いてか、こちらを振り向き、ニッコリと笑う。その顔は白粉でも塗っているかのように白く、口紅だけがやたら紅く見えている。洋服姿の人でも白い肌に真っ赤な口紅の人がいるが、これほど口紅の紅さを感じることはない。
 思わずドキッとしてしまう。目は唇に釘付けだ。和服への思いではなく紅への思いなのだ。
――そうか――
 和服の艶やかさは、きっと紅の艶やかさから感じるものではないだろうか。母親に対してもそうなのだろうが、後姿に関しては女性を意識していて、前からの姿を想像させることからも後姿が艶やかに見せるに違いない。特に母親は前からの姿が目に焼きついているだけに、後姿からさらなる紅いイメージを想像させるのだった。
 それまでは和服にしか興味を持たなかった理由がそこにあったのに気付いたのは、洋服屋が隣にできてからだった。そしてさらに洋服屋のショウウインドウに並んでいる服を見ていると、さらに和服のよさを感じるようになっていた。
 色である。
 単色であっても、グラデーションがついていても、洋服の色は、和服には叶わないと思っていた。きっと元々の素材が違うからで、色を染める技法にも工程上の違いがあるからなのだろうが、ショウウインドウに並んでいる服は、生身の人間が着ているわけではない。ただ飾っているだけなのだ。
 しかも、マネキンが着ているわけではない。ハンガーに架けられている。普通であればマネキンなのだろうが、
――おかしなことをするな――
 と思いながらいつもショウウインドウを眺めていた。
 眺めているが、何かを考えているわけではない。母親が不審がって見ていたのもそのためで、別に何かを考えることもなく、ただ見つめているだけだった。
 そんな時に限って時間というのは過ぎてくれないもので、本人はかなり見続けているつもりでも、時計を見れば少ししか経っていない。不思議な感覚だった。
 しかしもっとおかしなのは、それを見ている母親がまったく逆の感覚だからである。
 少ししか息子の姿を見ていないつもりなのに、気がつけば自分が想像していたよりもかなり時間が過ぎている。
――まったく動こうとしないわ――
 息子の微動だにしない姿を見て、まわりの空気は凍り付いてしまっていることを感じているからだろう。自分の感覚が凍り付いているように母親には感じられた。
 では、当の雅夫少年はどうだろう?
 目の前のショウウインドウにはまったく動く気配のない洋服が飾られている。だが、自分の想像は留まるところを知らず、それを着ている女性が歩いている姿を想像していた。
――きっと和服では想像できないな――
 和服が憧れではあるが、自分にとって遠い存在で、洋服は身近な存在という位置づけを勝手にしてしまっている雅夫少年だからこそできる想像なのだ。
 雅夫少年にとって、洋服は暖かいものだった。それに比べて和服には艶やかさを感じるかわりに暖かさを感じない。実に不思議な感覚である。
――どうしたのかしら――
 まったく微動だにしていないはずの雅夫少年の姿勢が最初に感じたのと少し違っていることに気付いた。
――動いた気配なんかしなかったのに――
 少し前屈みが激しくなったように思えた。窓に乗り出しているように見えるのだ。ひょっとしてそのまま窓から飛び降りるのではないかとさえ思えるほどで、ドキドキしているが、母親も身体がかなしばりに遭ったのか飛び出すことができない。
 いや、むしろ飛び出さない方がいいだろう。
――下手に刺激すれば本当に飛び降りるかも知れない――
 と感じたのは、それほど自分と雅夫少年との空気が違っていることに気付いたからだ。
――雅夫少年だけが凍りついた世界にいて、自分が普通の世界にいる――
 母親はそう感じていたようだが、そのわりに自分がかなしばりに遭っているのはなぜなのか分からない。空気が凍り付いているわけではないと感じていたからである。
 異様な光景である。窓の外を見ている息子を部屋の外から垣間見る母親。それを雅夫少年が気付いているかどうか、それすら疑問だった。
――きっと気付いていないわ――
 雅夫少年の意識は完全に窓の外にしかなかったからだ。
 そんな雅夫少年の行動は一日ではなかった。数日続いてもなお、母親には何が雅夫少年の心を惹きつけて離さないか分からなかった。
 表に出て、下から雅夫少年の様子を伺ってみたりもした。視線は下から見ていると、視線は遠くを見つけているように見えるから不思議だった。
――上から見ている時は、完全に下を向いていたのに――
 母親が訝しがるのも無理はない。雅夫少年自身、意識をしているわけではないのだが、視線は完全に洋服屋のショウウインドウに注がれていた。
 それは紛れもないことだ、すると、母親が階下から見上げた雅夫少年の視線の行方は錯覚だったのだろうか。
 いや、そんなことはない。紛れも泣く雅夫少年の視線は遠くを見つめていたのである。
 雅夫少年にとって、自分の部屋から眺める洋服屋のショウウインドウはずっと遠いところの存在にあった。まるで近くに見えているようで幻のような砂漠に存在するといわれるオアシスのようではないか。
 逃げ水とも呼ばれ、どこに現れるか分からないオアシスも存在するという。オアシスは旅人が自分の心の中で作り出すもののように雅夫少年は考えていたが、火のないところに煙が立つはずもない。きっと実在しているのだ。
 雅夫少年は、自分がオアシスを探している夢を何度も見たことがあった。見つけた瞬間に目を覚まし、
「やっぱりオアシスなんてないんだ」
 と思い込んでいたものだ。
作品名:短編集49(過去作品) 作家名:森本晃次