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短編集49(過去作品)

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オアシス



                 オアシス


 砂漠というところでは、オアシスというのを見ることができる。地獄に仏とでもいうべきか、これでもかと降り注ぐ太陽に容赦なく苦しめられた旅人が捜し求めるそれこそが、水という生命の源を育んでいる場所がオアシスと言われるところである。
 しかし、オアシスの存在は奇跡に近いのではあるまいか。渇水状態で草木も生えない砂だらけの土地が無限に広がっている中で、雨さえも期待できるわけがない。雨というものは地面に溜まった水が水蒸気となって昇ったものが、雲となり、頃合いを見計らって雨となって降ってくるものであるという循環的なものである。元々水っ気のまったくない地表から湧き上がる水分がないのだから、雨だって降りようもない。つまりはまったく水分を供給するものが何もないことを意味している。
「火のないところに煙は立たない」
 と言われるがまさしくそのとおりで、どこに雨を降らせる要因があるというのだろう。実に不思議であった。
 オアシスを見つけるのは砂漠では砂の中から金貨を見つけるようなものかも知れない。もっとも砂漠では金貨よりも水の方がよほどありがたいに違いないが、旅人は一体どのようにして生きながらえてきたのだろう。考えるだけ無駄に思える。きっと袋小路に入り込んでしまうに違いない。
 砂漠の中で見つけるオアシスは、そのほとんどが幻なのかも知れない。幻影であって、実際に近づけば、そこには何もない。人間は極限状態に陥れば、幻を見るというが、幻のオアシスを見ることによって、
「ああ、もう俺は終わりなんじゃなかろうか」
 と旅人も感じるかも知れない。
 それまで気力を振り絞って頑張ってきたのに、幻を見ることでそれまで考えないようにしてきた「死」というものが次第に現実味を帯びてくる。弱気になったが最後、気力は失せてしまい、自分でどうすることもできなくなるのではないだろうか。
 雪山で遭難した時もそうである。
 気力を振り絞って頑張っている時は、何とかなっても、眠ってしまえば、そこから先は凍死するだけ、
「眠っちゃいけないぞ」
 と言って、眠ってしまいそうになっている仲間の頬を必死に叩いている光景を映画などでよく見るが、眠ってしまったその時の顔はきっと安らかで、見ているだけで、
――俺も楽になりたい――
 と思うのではなかろうか。
 ある意味、仲間が死んでいくのを必死に止めていることで、自分も生きるんだという気力を保っているのかも知れない。まわりが一人ずつ死んでいくと心細くなってしまい、次第に生きることがどうでもよくなってくることが死というものに直面すると分かってくるものではないか。
 オアシスにしてもそうなのだが、死を前にする人間には幻が見えるという。幻が見えると死が近いというわけではないが、一つのものをじっと見つめていたりする行動には、きっと何かの曰くがあるのかも知れない。
――見えない扉が存在しているのかな――
 そんなことを考える人もいるだろう、
 またオアシスのように幻を見て、近くに寄ると幻だという事実に直面し、その時に何を感じるのだろうか。
――俺もこの幻のようにどこかに消えてしまうのかも知れない――
 砂漠のような地獄で、仏のオアシスを発見し、それが忽然と消えてしまったら……。そこに残るものの中に気力が存在しているかどうか、言わずと知れたことだろう。
 そんな光景を思い浮かべながら、そんな状況に陥っている人を後ろから見ている想像をしてみる。
――目の前から忽然と消えたとしても、それは誰も疑うこともなく、無限に広がる砂漠では実に小さな出来事の一つなのかも知れない――
 そう感じている人がこの世に少なくとも一人だけいる。
 それは今の時代という意味であって、他の時代にはもっといるかも知れないし、いないかも知れない。また、少なくとも一人はいるという意味で、まったく同じ事をまったく同じ時間に考えている人もいるかも知れない。
 世の中、自分以外のことは誰も不思議な世界のように感じ、無限なものだと思っているのではないかと思っている。そう感じているのは、雅夫少年だけではないかも知れない。
――他人は他人、自分は自分――
 雅夫少年はいつもそう考えている。自分だけが特別で他人はすべて自分ではないという意味で平等だと思っている。そのくせ他人のことをよく分からないので、自分と比べてみる気持ちも強いのだが、比べてみても、結局どんなに考えても一緒になるわけではないので、分からないことが多い。
――比較するだけ無駄だ――
 と考えながらも、比較することをやめない。雅夫少年は、そんな性格だった。
 オアシスを考える時、いつも思い出す話があった。
 あれはテレビアニメだったと思うが、砂漠を旅する人の話だった。テレビで見ている分には、砂漠を旅するにもそれほど大したことがないように感じる。やはり子供向けのアニメ番組、大げさになってしまっては、視聴率に響くからかも知れない。
 いや、それよりも親からの苦情があるからかも知れない。あまり過激な内容では、教育上よろしくないという考えがあるからであろう。
 最近のアニメはそれでなくとも教育上問題がありそうなものが多い。大人も楽しめるものということなのだろうが、肌を露出するものやグロテスクなものもないとは言えない。アキバ系なるものが流行っているせいもあるだろう。
 十年ほど前からアニメには厳しくなったはずであった。少年犯罪のほとんどがアニメを模倣したものに変化してきたことで、親や学校が騒ぎ出したことがあった。しかし、それも今は昔、一部でまだ根強い反対の意見も上がっているが、結構緩和されている。
 それでも縮小現象にあった頃の名残りからか、あまり露骨な恐怖感を感じさせるアニメだけは減っていった。それを見る子供自体、
――怖いものは見ないようにする――
 という傾向にあるようで、怖いものを意識的に記憶に残さないような脳内構造になってきている。
――都合がいい解釈になってきているのかな――
 という発想が頭を巡り、教育という観点が自分の頭の中からずれてきているのが分かってくる。
 テレビアニメでの砂漠は、映像を見ていても暑くて渇ききっていることを伝えようとしている。しかし、実際に見たことのないところを想像するのには限界があり、砂漠の中のオアシスがどれほどありがたいものなのかなど、分かるはずもない。
 アニメの内容は、砂漠にあるオアシスを見つけるというものだった。
 一口飲めば不老不死の効力を得られるという水、それが目的のオアシスにはあるという。もし、そのオアシスを見つけたとしよう。目の前にある水を一口飲む自分の姿を想像する。だが、考えてみればその水が本当に不老不死であるかどうかということが誰に分かるというのだろう。永遠に老けないとしても、何年か経たなければ自分が老いていないことは分からない。しかも自分の顔というのは何かに顔を映さないと見ることができないものだ。ましてや場所は砂漠、孤独な一人旅である。
作品名:短編集49(過去作品) 作家名:森本晃次