短編集49(過去作品)
お互いに気持ちが高ぶってくる。話で気持ちが盛り上がっているからである。話をするということは、自分の気持ちを分かってもらいたいという思いと、相手の気持ちを知りたいという思いのぶつかり合いでもある。特に好きな相手との思いのキャッチボールは、次第に興奮を心の中に蓄積させていく。
見つめ合うと、相手の息遣いが聞こえてくる。まわりの喧騒とした雰囲気が次第に消えてくる。ただ、耳鳴りのような音が右から左に流れていき、興奮とは別の穏やかな気持ちが湧いてくるのを感じる。
穏やかな気持ちは次第に気持ちの余裕に繋がり、気持ちの余裕に気がつくと、彼女を抱きしめていた。
穏やかな表情の彼女は、頬を紅潮させ、興奮を感じる。息遣いの中で、顔を近づけると、目を瞑って、顎を突き出す。突き出した顎にさらなる興奮を感じた藤原は、彼女の唇に自分の唇を重ねる。
――熱い――
これが最初の感覚だった。
柔らかさを感じると思っていたが、最初に感じるのは熱さだった。気持ちの表れに違いない。
彼女とは、付き合ったと厳密に言えるかどうか分からない。身体を重ねることなく別れたからだ。
別れを言い出したわけではないが、彼女が藤原を敬遠するようになっていった。藤原も心のどこかで彼女の心変わりを感じていたところがあったので、お互いに気まずい雰囲気になってからはお互いを意識しながらも近づこうとしなかった。いわゆる自然消滅の形で別れたのである。
後悔がないといえばウソになるだろうが、気持ちの中で傷をつけることなく別れられたと感じていた。付き合っている時から、逃げの気持ちが心の中にあったのかも知れない。それは藤原だけではなく、彼女にも言えることだ。だからこそ、遠ざけるようになったことに対してそれほど罪悪感もなかったのではないだろうか。それがお互い様なら余計にである。
それが初めて女性と付き合ったという経験なので、どこか物足りなさを感じていた。
――燃え上がるような恋――
そんなものは自分には無縁だと思っている。いつもどこかに逃げ道を用意していて、自分を納得させるための布石をいつもどこかに持っている。果たしてそれを恋愛といえるのだろうか。そういう意味で、恋愛をしたことが今までにはなかったのかも知れない。
そんな藤原に対し、助言を求めてくる後輩もいるが、どういう心境なのだろう。完全に客観的な見方で助言してほしいという気持ちの表れなのだろうか。それ以外には考えられない。
喫茶店で話しかけてきた彼女のことを気にしていなかったといえばウソになる。
告白まではできなかったが、もし告白していればどうなっただろう。付き合うところくらいまでは行っていたかも知れない。
――ひょっとして自然消滅の原因は彼女の存在にあったのかも知れない――
今までは、失恋という気持ちの中で、まわりの人が違って見えることで、初めて彼女を意識し始めたと思っていた。
失恋というほどのことではないのだろうが、時間が経つにつれ、心の中に吹いてくるすきま風が何であるか分からなくなってくる。自然消滅なので、すぐに、
――自分に彼女は合わなかっただけだ。新しい彼女を見つければいいんだ――
と考えられたのに、思い出すことは楽しいことばかり。
「女性と男性は違うのさ。男性は別れてから楽しかったことを思い出す。だが、女性は付き合っている時にずっと我慢していて、楽しかったことを思い出すのはその時だけで、別れるとなると、もうその時には我慢の限界に達しているものさ。男性から別れを言い出した場合はまた違うが、自然消滅の時に未練がましいのは男性の方じゃないかな」
と話していた友達がいた。その話を失恋の時に思い出していた。
しかも失恋の日から毎日のように夢を見る。そのほとんどの夢に彼女が現れて、最高の笑顔を見せてくれる。夢の中では立派な恋人同士なのだ。
――どうして別れるようなことになったのだろう――
不思議で仕方がない。
別れたことを後悔する時期がやってくる。長くは続かなかったが、一人でいることが不安な時期であった。こんな時期が自分にあろうなどと、考えてもいなかった。
彼女と付き合っている時も、別れることに対してそれほど不安はなかった。実際に自然消滅した時も、
――それならそれで仕方がない――
一抹の物足りなさを感じてはいたが、割り切ることができた。
だが、夢の中という大スクリーンに映し出された思い出には気持ちを揺るがす何かが、想像していたよりも大きくのしかかってくる。まったく想像していなかったわけではない。夢というのが潜在意識の成せる業であることは分かっていたからだ。
ついつい友達と話をしたくなる。それまではあまり友達と話をしたいとは思わなかったのだから勝手なものだが、孤独に耐えられない時期の存在を知ってしまったからだ。
相談相手になってくれる友達はいた。地方から出てきて、一人学生アパート暮らしをしているやつだったので、泊り込むにはそれほど遠慮はいらない。
「俺も誰かと語り明かしたい夜もあるからな」
と言ってくれたことで気が楽になった。
一緒に銭湯に出かけ、帰りに食堂で夕飯を食べ、帰りにコンビニでビールとつまみを買ってくる。これも楽しかった。
藤原も失恋の話題をいきなり聞いてもらいたいわけではない。世間話に花を咲かせ、そこから一般論でも構わないし、彼の意見まで聞ければありがたかった。失恋など星の数ほどあって、そのパターンも多種多様であろう。却って一般論を聞いた方が、自分の中で理解しやすいのかも知れない。
失恋自体が自然消滅、理由もはっきりせず、お互いにぎこちなくなったのが原因であろう。
そう思っていたし、一般論としてもそういうことの話になっていた。だが、そのうちに彼が自分の意見を言い始めた。
「お互いに身体を重ねてないんだろう?」
「そうだね。そこまでは行ってないね。付き合いから考えると、そろそろだとは思っていたけど、なかなか機会もなくてね」
少し友達も考えていた。言葉を選んでいるようにも見えたが、
「ひょっとして、彼女が痺れを切らしたのかも知れないね。彼女も抱いてほしかったのかも知れない。なかなか相手が煮え切らないと、自分に魅力がないのではないか、なんて気持ちにならないとも限らないしね」
こういう露骨な話は、言葉を選ぼうとしても、所詮生々しくなってしまう。却ってぼかす方がいやらしさを含むのではないだろうか。
「俺に勇気がなかったのかな?」
「それよりも、本当に恋愛だったのかって気もするんだけど?」
「どういうこと?」
「恋愛にはいろいろな種類のものがあってもいいと思うんだけど、それなりに段階はあると思うんだ。その段階を進んでいないので、自然消滅だったのかも知れないと思ってね」
確かにそうかも知れない。
――恋愛にもいろいろあっていいんだ――
という気持ちが強くて、自分本位の気持ちがあったのも事実だ。彼女もそんな藤原に他の人にはない何かを感じていたのだろうが、あまりにも自分の考えと逸脱していれば、ついていくことに不安を感じるようになっても仕方のないことだろう。
酒が入ってきて、気持ちが大きくなっていくと、次第に饒舌になってくる。
作品名:短編集49(過去作品) 作家名:森本晃次